人は時として、言葉にできない感動に心を震わせることがあります。たとえば、初日の出を拝んでいるときに感じるおごそかな気持ち。胸に込み上げてくる言い知れぬ感慨は、簡単な一言でとても伝えきれるものではありませんね。
そのように心の真実とは、論理だてた言葉では説明しきれない直感の中にあるものです。
禅宗では、この直感を揺さぶって、悟りの境地に至らせようとする指導法が伝えられており、それが「禅問答」といわれる対話です。禅問答は時代が下るにつれて「公案」という問答集にまとめられ、長く禅の修行者の学びの糧となりました。
禅問答といえば回答が難解なことでも知られていますが、もちろん単純な謎かけなどではありません。そこには悟りに至るための深い真実が隠されているのです。
これから紹介する8つの禅問答は、いずれも禅の醍醐味を感じさせる有名なものばかりです。
初めて公案に触れる人にも内容をわかりやすく解説していますので、この機会にぜひ、禅の世界の奥深さを体験してみてください。
禅問答とは何か?
禅問答の意味
禅問答とは、禅の修行者が悟りを開くために、指導者と交わす対話のことをさします。修行者が問いを発し、これを受けて指導者が答えるという形式が一般的です。
禅問答を実践する禅宗では、経典などの言葉に頼らず座禅という行動を通して悟りに至ることを重視しています。
つまり、仏法の奥儀は理路整然と筋道だてて教えてもらうものではなく、自ら体験して得られる実感の中にその真実をつかめと教えているわけです。
そのため、禅問答には非論理的で抽象的で、いわゆる意地悪な回答が少なくありません。
たとえば、「祖師西来意」などは代表的な禅問答の一つ。
「達磨大師がインドから中国に伝えようとした心は何か」と聞かれて「柏の木だ」と返しています。
何だかよくわかりません。
普段の生活の中でも、わけのわからない会話ややりとりを「禅問答のようだ」とたとえるのは、この難解さからきているのですね。
禅問答の歴史
ここで少し禅問答の歴史に触れておきましょう。
そもそも禅とは、「精神を集中して心が落ち着いている状態」をいう仏教用語です。
仏教の開祖である釈迦は、座って瞑想する中で禅の境地に至り悟りを開いたとされています。
これが座禅のルーツとなりました。
仏教にはさまざまな宗派がある中で、この座禅を通して悟りを得ようとする宗派を禅宗といいます。
禅は達磨大師によって中国にもたらされましたが、禅宗として確立したのは唐代の禅僧、馬祖道一(ばそどういつ)でした。
禅問答は、この馬祖道一の語録が草分けとなり、その後各地に広がりました。
禅宗の公案として禅問答が収集されるようになったのは、11世紀に入ってから。
中国・宗の時代の禅宗史書「景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)」にその事跡が残ります。
公案を座禅の課題として本格的に修行に用い始めたのは、宋代の五祖法演禅師です。
法演禅師は、指導者から示された課題を解いて悟りに至るという「看話禅(かんなぜん)」の確立者としても知られます。
この看話禅は鎌倉時代に日本に渡ると、臨済宗と黄檗宗(江戸期)で用いられるようになり、今もその実践者を増やし続けています。
このように、公案を取り入れた禅の手法は長い年月に磨かれて現代に伝わっており、黙照禅で知られる曹洞宗とともに禅宗の一翼を担っているのです。
禅問答の掛け声|そもさん せっぱ
禅問答を行う際、質問者が回答者に掛ける掛け声があります。
それが「そもさん(作麼生)」という言葉で、「さあどうだ、答えてみよ」と回答を迫る掛け声です。
看話禅が確立した宋代の俗語で「怎麼生」「什麼生」とも表記します。
一方、これに応えて発するのが「せっぱ(説破)」です。「答えてみせよう」というのがその意味で、論破してやるという意気込みがうかがえます。
「そもさん」「せっぱ」でワンセット。
修行者が声掛けして、指導者が受け答えるという流れが一般的です。
テレビアニメの「一休さん」でもおなじみのやり取りですね。
禅問答の目的と効果
禅問答というのは、答えの意味を頭で考えてもなかなか正解に行きつきません。
なぜなら、禅の奥義は論理的な言葉で説明できるものではないからです。
論理的な言葉とは、これまで修行者が慣れ親しんだものの考え方そのもの。思い込みで凝り固まったこだわりの思考に他なりません。
禅は、虚心坦懐に自分を見つめ、真実の自分に出会うための修行です。
真実の自分に出会うためには、凝り方まった考え方を打破して、新しい視点を手に入れる必要があります。
その視点を手に入れるのがまさに禅問答の目的。
難問に挑むことで内省する力を磨き、真実を見る目を養えることは禅問答を行う大きな効果です。
さらに瞑想とともに行えば深いリラックス感が得られることも期待できます。禅問答がストレス解消にもつながるのであれば、これはうれしいメリットですね。
禅問答のやり方
禅問答は、指導者と修行者の2人で行います。
静かに集中できる場所であればどこでも行うことができますが、一般的には禅寺や禅道場などが最適でしょう。
具体的なやり方としては、指導者が質問をして修行者が答えるという順番で対話を開始していきます。
指導者は、修行者の回答を聞き、それをもとにさらに質問をかぶせていきます。
修行者はその質問を受けて自分の行った回答を内省し、至らないと感じた点はさらに熟考を深めます。
このように、一つの問いを皮切りに対話を重ねながら進行することで、修行者はより深く自己の内面に対する理解を深めていくことができるのです。
初心者向けに選んだ面白くて深い例文8選
1.隻手音声:音はどこから来るのか?
「隻手音声」は「せきしゅのおんじょう」と読みます。
隻手とは片手のことで、音声は音の意味。
江戸時代の禅僧、白隠和尚の公案で「両手を打つと音がするが、では片手だとどんな音がするのか」という問い掛けが問答の内容です。
でも両手で打つからこそ音が出るのであって、片手ではせいぜい風を切るくらい、とても音など打ち鳴らすことはできませんね。
だから「音は出ない」と答えたいところですが、それは聞える音だけにこだわる思い込みだと、この公案は教えています。
音は耳で聞くものという分別にとらわれている限り、音を感じることはできません。全身全霊で気配を感じようとすれば、必ず真実に触れるものがある、そこに向かって励めと戒めているのですね。
2.狗子仏性:犬にも仏性はあるのか?
「狗子仏性」は「くしぶっしょう」と読みます。
狗子とは犬のことで、仏性とは仏の本質という意味。
中国・南宋時代の公案集「無関門」に見られる問答で、「犬にも仏性があるのか」という問いに、禅の高僧・趙州和尚は「ない」と答えた、その真意は何かというものです。
実は、釈迦の教えではすべての生き物に仏性があることになっていました。ですから当然、「ある」という答えがなされるものと予想していたのです。
しかし、趙州和尚は「ない」と言い切りました。
そのために質問者は混乱したというわけです。開祖の言葉を否定する回答は、確かに質問者を惑わせます。
しかし、趙州和尚の「ない」は質問者が受け取ったものとはまったく別の真実の言葉でした。
すなわち、この「ない」は「有る無し」といった二者択一の対称語ではなく、絶対的な「無」としての「ない」だったのです。
犬にも仏性が備わっていることは自明の理。
それにもかかわらず、犬は自分の中に仏性があることなどつゆも感じていません。
有る無いは単に人の判断によるもので、仏性とはそのような判断の対象にはならない永遠不変の真理。
有るとか無いとかにとらわれず、ただひたすらに修行に励めと、この公案は教えているのです。
3.非風非幡:風が動くのか?幡が動くのか?
「非風非幡」は、「ひふうひばん」と読みます。
幡とは旗のこと。
すなわち「風でもなく、旗でもなく」という意味で、「無門関」に見られる問答です。
風になびく旗を見た二人の修行僧が、「あれは風がなびかせているのだ」「いや、旗がたなびいているのだ」と言い争ってお互い譲りませんでした。
見かねた禅の高僧、慧能大師が割って入り「あれは風が揺らしているのでも、旗がたなびいているのでもない、君たちの心が動いているのだ」と説いて二人を恐縮させたというのがその内容です。
一般的に考えれば、風が吹くから旗が揺れるともいえますし、旗がたなびくから風が吹いていることがわかるともいえます。
物理的に働いている力は同じもので、修行僧たちの主張は現象の捉え方の違いに過ぎないといってよいでしょう。
そこに気づかずに、二人は自分の意見に固執します。慧能大師はまずその点をたしなめたのです。
君たちは目の前の現象だけにこだわって、ああでもないこうでもないと言い争っている。そのこだわりに心が動かされていることに気づいてもいない、と。
さらに大師は、言葉の先にもっと深い真理を示唆します。
対象に心が動かされているうちは観念にとらわれているのである。「真理は不動のうちにある。」
心が不動のものになれば天地一体となり、すなわち風も旗も動かない。
その境地に至るまで修行に打ち込まなくてはならないのに、君たちはどうだ。
修行僧たちが恐縮するのも無理はないかもしれませんね。
4.達磨安心:心はどこにあるのか?
「達磨安心」は、「だるまあんじん」と読みます。
達磨は禅宗の開祖、安心は悟りを得た穏やかな心という意味です。
「無門関」に収められる禅問答で、達磨大師とその弟子、慧可大師のやり取りに題材をとっています。
弟子が師に問うて言うには、「私は不安でなりません。どうか安心を授けてください」。
これに対して師は「では、その不安な心をここに出しなさい。安心を与えよう」と返します。
弟子が「お出ししようとしましたが、出せる心が見つかりませんでした」と答えると、師は「それこそが安心だ」と伝えたとされます。
不安な心を出せと言われて、弟子の慧可は心のうちにある不安を何とか形にしようとします。
しかし不安はもともと形のないもの、どうやっても見つけることはできませんでした。
見つからなかったことを弟子は必死の思いで師の達磨に伝えようとします。
そのとき慧可の心に不安はなく、あったのは形として示せないことをひたすら師に伝えようとする「無心さ」だったのでした。
その無心さがとりもなおさず禅の奥義、煩悩から解き放たれた自由の境地であって、「それこそが安心だ」と答えた達磨の真意であったというわけです。
5.南泉斬猫:猫を救うことはできたのか?
「南泉斬猫」は、「なんせんざんみょう」と読みます。
南泉は禅宗の高僧、斬猫は文字通り猫を斬るという意味です。
「無門関」に見られる問答で、数ある公案の中でも特に難題の一つとされています。
ある日、禅堂の修行僧たちが東西に分かれて激しい論争を繰り広げていました。
猫にも仏性は有りや無しやが議論のテーマ。
一匹の猫を真ん中に大勢が二手に分かれて言い募り、なかなか収束する気配がありません。
そこに現れた南泉が猫の首をつかんで言うことには、「誰でもよい。この猫の真実を明らかにする一言を述べてみよ。言葉がよければ猫を放す。悪ければ斬る」。
師である南泉に迫られて雲水たちは必死に答えを探しますが、誰も言葉を発することができませんでした。
そのため、とうとう南泉は猫の首を切ってしまったのです。
その夜、南泉の高弟で外出先から戻ってきた趙州に、南泉は昼間のいきさつを話します。
「お前ならどうしたか」と聞かれた趙州は、黙って履いていた靴を脱ぎ、頭の上にそれを載せてそのまま部屋を出ていきました。
それを見て南泉は、「お前がいてくれさえすれば、猫は救われただろうに」と言いました。
殺生を禁じる仏教の教えを最もよくわきまえているはずの南泉が、猫を斬ってしまったことは衝撃的で、靴を頭に載せて部屋を出ていく趙州の意図も難解です。
この禅問答にはさまざまな解釈がなされていますが、いずれの解釈もこのエピソードを二つのパートに分けて考えています。
一つは、なぜ南泉は猫を斬ったのか?
そしてもう一つが、趙州はなぜ靴を頭に載せたのか?、という点です。
この章の冒頭で「狗子仏性」の問答を紹介しました。
仏性の有る無しは人の分別によるもの、そこにこだわっているかぎりは禅の奥義にたどり着くことはできない、というのが問答の主眼でしたね。
にもかかわらず、ここでも大勢の弟子たちは有無の分別にとらわれ、誰一人として「絶対的な無」の境地を示すことができませんでした。
そこに南泉は失望し、殺生という究極の禁忌を犯してまで禅の厳しさを伝えようとした。
そのようにしてまで大勢の弟子たちを救おうとした、というのが一番目の問いに対してなされている一つの解釈です。
ではなぜ趙州は靴を頭上に載せ、南泉が「そこに真実あり」と認めたのでしょうか。
「絶対的な無」というのは対象を求めません。有る無しのような二元論で捉えるものではないのですね。
靴は履くもので被るものではない、そのような二元論的な分別を捨て去って趙州は履物を頭に載せました。
しかも左足右足の両方を一つに揃えて、つまり二元のものを一つにまとめて載せた先は、あれこれと考えて分別を生み出す頭の上。
すなわち思考の上に掲げることで、すでにもう考えることを超越した絶対的な無の境地であることを示したというわけなのです。
6.洞山麻三斤:仏とは何か?
「洞山麻三斤」は、「とうざんまさんぎん」と読みます。
洞山は禅宗の高僧、麻三斤は衣を織る三斤の麻という意味。
「無門関」のほか、北宋時代の公案集「碧巌録」にも見られる禅問答です。
禅の修行者が洞山禅師に「仏とは何か」と質問しました。
この問いに対して洞山禅師は、「三斤の麻である」とだけ答えたというものです。
麻は、洞山禅師の住んでいた地域ではよく採れた植物で、三斤あれば服一着を織りあげることができたといわれます。
仏とは、その麻三斤だというのです。
深遠な答えを期待した修行者にとっては、肩透かしの言葉だったかもしれません。
洞山禅師は仏を特別視する修行者の心を見抜き、その思い込みこそが仏から遠ざけるのだと言いたかったのでしょう。
仏性はすべてのものに宿るのであって、何も特別なものではない。
その真実を伝えるために、身近にあった麻の束をさしていった言葉がこの回答になったというわけです。
7. 即心是仏:仏とは何か?
「即心是仏」は、「そくしんぜぶつ」と読みます。
書き下し文にすると「心すなわちこれ仏」となり、「心こそが仏である」というのがその意味です。
「即心是仏」は「即心即仏(そくしんそくぶつ)」と書き表す場合もあり、「無門関」にはその禅問答が見られます。
弟子の大梅が師である馬祖道一禅師に「仏とは何か」と問います。
それに答えた師の回答が「即心即仏」、心こそが仏であるというものでした。
では、心とは何かという問題が浮かびますね。
曹洞宗の開祖・道元は、心を「山河大地であり、日月星辰である」と述べています。
すなわち、心は森羅万象、生きとし生けるものすべてに宿るものであり、すべては仏(即心是仏)であるというのです。
その意味では、人は誰でもすでに仏であるのであって、喜怒哀楽の感情すべてにも仏性が宿っていることになります。
自分自身を見つめる中でこの仏性に気づき、悟りの境地にたどり着くことこそが禅の奥義を究めるということだ、と教えているのですね。
8. 非心非仏:仏とは何か?
「非心非仏」は、「ひしんひぶつ」と読みます。
書き下し文にすると「心にあらず仏にあらず」となり、「心ではない仏ではない」と訳せます。
この禅問答も「無門関」に見られるやりとりで、「仏とは何か」と問う修行者に対して返した指導者の答えがこれでした。
つい先ほど、「即心是仏」で「心は仏である」という解釈を受け取ったばかりなのに、ここでは正反対のことを言っています。
しかも、答えたのは馬祖道一禅師で「即心是仏」と同じ回答者。
これは一体どういうことなのでしょうか。
実は今、私たちは「非心非仏」の解釈に触れて、一つ前に見た「即心是仏」と「心」の捉え方が違うじゃないかと思っています。
この禅問答が気づきを与えようとしているのは、その点です。
「心は仏である」も「心は仏ではない」も、考えることによって導き出された二元論的な対比の産物。
すなわち心の中は分別にとらわれた自我に満ちており、言葉を超えた真実に触れるにはまだ遠い段階にいる証であるといえるわけです。
「即心是仏」も真、「非心非仏」も真。
今あることをあるがままに受け入れられることで、絶対的な無の境地に至り、初めて禅の奥義に触れることができるのです。
禅問答(公案)に挑戦するコツと注意点
禅問答(公案)を考えるときに役立つポイント
上に紹介した有名な公案に触れて、よし自分も解いてみよう、と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
公案集は書店やネットでも入手することが可能ですので、ぜひチャレンジしてみてください。
ここでは、公案を考える場合に役立つポイントを紹介します。
それは、いずれの公案についても、答えはすでに自分自身の中にあると自覚することです。
禅問答では、自分以外の誰かのこと、何かのものがテーマになっている場合がありますが、かたちはどうであれ、すべて自分自身のことが問われています。
公案には、これこそが正解だという定まった答えはありません。
自分の体験を通して得られた実感を、いかに真実に落とし込めるか、ものごとに向き合うその虚心坦懐さが問われているのだと気づくことが大切です。
禅問答(公案)を考えるときの注意点
公案を考えるときの注意点はただ一つ、理論で答えを出そうとしないことです。
そもそも問いの文脈が論理的ではありません。
論理的でない問いに対して、無理に常識を当てはめても答えは出ませんし、たとえ出たとしても、それはこじつけの言葉遊びに過ぎないでしょう。
誰もが感心する良い回答を考えてやろうという虚栄心にも要注意です。
それこそが禅の修行を妨害する、一番の元凶なのですものね。
禅問答を通じて見えてくる禅の思想
禅とは、精神を統一して自分自身と向き合う修行。その修行を促すのが禅問答です。
禅問答は、文字の意味を頼りにやり取りするものではありません。
むしろ文字の意味を壊すことで既成観念から抜け出し、悟りの真実に近づこうとするのです。
禅問答が難解なのは、頭で分かろうとするからなのですね。禅は文字ではなく、感じることの中に真実を見つけようとします。
ですから禅問答では、答えを出すことではなく、答えを得ようとするその過程に重きを置くわけです。
一つの公案を何年もかけて解くことがあります。その間、修行者は自分自身と向き合い続けます。
自分と向き合う中で、おのれの執着心や虚栄心がいかにものを見る目を曇らせているか、他人と比べることがいかに無意味で空しいものかに気づいていくでしょう。
それこそが公案のねらいであり、禅が追究しようとする思想なのですね。
まとめ:禅問答(公案)に挑戦して禅の奥深さを体験しよう
頭で考えるだけでは、なかなか良い結論に至らないことがあります。たとえば自己啓発の本などを読んで、そのときは腹落ちしたつもりでも、しばらくすると何も残っていなかったというような経験はないでしょうか。
本を読んで得られたはずの教訓が、いつの間にか固定観念に引き戻されて、結局一過性の感慨で終わってしまう。長い年月をかけて凝り固まったものの見方は、ことほどさように御しがたいものなのです。
しかし、そんなときこそ思考の枠から一歩踏み出すチャンスなのかもしれません。公案を体験すると、ものごとを受け止める心の器が大きくなります。
冒頭に「祖師西来意」の問答を紹介しましたが、回答はもうお分かりかもしれませんね。
「すべてのものには仏性が宿る。だから、柏の木にも仏性があり、そのことを伝えるのが達磨大師の目的であった」
考えるのではなく感じるという禅の奥深さ。
禅問答に挑戦して、これまでとは違った新鮮な視点、新しい自分に出会ってみませんか。