生きていると、時に迷ったり、泣きたくなったりする出来事に遭遇するものです。深い暗闇の中で絶望感に押しつぶされて、自分を見失ってしまいそうになることもあるでしょう。
そんな時に力を与えてくれるのが禅語です。
禅語とは、文字通り禅の言葉。禅の修行を通じて得られた知恵の結晶です。
人間関係の煩わしさやお金の心配、健康への不安、生きることへの漠然とした空しさ。先人も私たちと同じように日々の悩みを抱えていました。
禅語にはその苦しみから抜け出す数々の知恵が凝縮しており、長い年月に磨かれて、多くの人に口ずさまれながら今に伝わっています。
これから紹介する20の禅語は、直面している悩みに寄り添い、勇気づけ、今の自分を肯定してくれる陽だまりの至言ばかりです。
その中にはきっと、今後の人生を照らしてくれる座右の銘も見つかることでしょう。
禅語とは?
禅語とは「禅宗の教えを表す言葉」
禅語とは、禅の教えを簡潔に表現した言葉です。
では、そもそも禅とはどういうものなのでしょうか。
禅とは、仏教用語の「禅那(ぜんな)」に由来するもので、心が静かに落ち着いている状態を表す言葉です。
仏教は古代インドの釈迦(しゃか)によって開かれた宗教ですが、その目指すところは、生きる苦しみから逃れるために悟りを開くことでした。
釈迦は座り続けることで禅の境地を得て悟りに至ったとされています。これが座禅のルーツです。
仏教にはさまざまな宗派がありますが、この座禅によって悟りを得ようとする宗派を禅宗といいます。
禅宗では、経典などによる言葉よりはむしろ、座禅などによる行動で悟りを開くことを重視しているので、悟りに至る大切なポイントは短い言葉に凝縮して口伝しました。
その教えが禅語なのです。
なお、禅宗について詳しく知りたい方は以下の記事を参考になります。
禅語の歴史
禅語の歴史は、インドの僧である達磨大師が中国で禅宗を開いた唐の時代にまでさかのぼります。
禅宗は、中国から日本に伝わり、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗などの宗派に分かれて普及しました。
各宗派とも、坐禅を組んで精神の統一をはかり、自分とは何かという問いに向き合いながら悟りを得ようとする点では共通しています。
ただし、悟りに至る方法にやや考え方の違いがあり、それが禅語の多様性を生む結果につながりました。
たとえば、臨済宗や黄檗宗では「公案(こうあん)」を重視します。
公案とは悟りに至る大切なヒントを指導者が修行者に問いのかたちで与えるもので、禅問答とも呼ばれます。
理論的に考えても正解にたどり着けず、修行が足りなければ答えは難解で理解に苦しむことでも知られています。
一方で曹洞宗は、公案によらずひたすら座禅を組む「只管打坐(しかんたざ)」や、家事や掃除などの日常作業「作務(さむ)」を重視します。
そのため、禅語には普段の動作や身近な素材が盛り込まれたものも多く見られます。
このように禅語の歴史は古く、時代が下り宗派が増えるにつれて、その内容もバラエティーに富むようになってきたのでした。
禅語の魅力
禅語の魅力は、その簡潔さと意味の深さにあります。
わずか一言で、ものごとの核心を突きながら、問題に対する深い内省を促してくれるのも禅語の特徴といえるでしょう。
禅語は、あるがままの自分を受け入れることの大切さを教えてくれます。
同時に、さらなる挑戦に向かって奮い立たせてくれることもあります。
人生の奥深い哲学や自己探求のヒントが隠されている言葉の数々には、私たちに生きる自信を与えてくれる強い力が秘められているのです。
座右の銘にもなる禅語20選
人生の教訓になる禅語5選
1.今日という日を大切にする「日日是好日」
「日日是好日」は、中国の唐末五代の禅僧、雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師が残した言葉です。
「にちにちこれこうじつ」と読み、直接的な意味は、「毎日が良い日である」ということになります。
確かに、毎日が良い日にこしたことはありません。
でも、実際は仕事や家事で失敗したりして、嫌な日になってしまうこともありますね。
そんな日でも良い日だと思うことが大事だとこの禅語は言っているのです。
つまり、今日は雨が降って嫌だとか、晴れているから気分が良いとか、良し悪しに心を奪われず、選ぶ気持ちを捨て去れば毎日はいつも幸せになるという意味です。
2.時には変化をも楽しむ「行雲流水」
「行雲流水」は「こううんりゅうすい」と読み、古くから中国の詩文に好んで使われている表現です。
直接的な意味は「雲が行き、水が流れる」ということになりますが、絶え間なく動いているさまを連想させる言葉です。
禅語としては、「空を行く雲のように、流れる水のように全国を修行行脚する」という意味になり、これは、お釈迦様が悟りを求めて各地をさまよったことがもとになっています。
そのため、修行僧のことを雲水と言い、社会生活の中でも、変化を恐れず黙々と目標に向かって突き進む生き方を行雲流水と例える場合もあります。
3.ありのままのあなたの心で生きる「平常心是道」
「平常心是道」は、「無門関」(十九則)の中で、趙州禅師と師匠である南泉禅師の問答に見られる言葉です。
「へいじょうしんこれどう」と読み、直接的な意味は「いつも通りの心で行う」ということになります。
二人の会話では、仏道の道とはどのようなものかを問う弟子に対して、師匠は「余計なことは考えずに、道を真っすぐに進むことだ」と諭すやり取りが見られます。
日常生活でも、何かをしようとする場合に、あれこれと阻害要因を考えて心が乱れることがありますが、そんなことは気にしないで「ありのままの心でなすべきことをなす、そのことだけに集中せよ」と言っているわけです。
現代でも緊張する場面などで「平常心で臨む」といったような言い方をしますね。
ありのままの心でいることが、結局は一番良い結果を生むのです。
4.幸せとは自分の中にある「知足安分」
「知足」は「老子」に見られる文言で、「足るを知る」、つまり満足することの意味で用いられます。
「知足安分」は「たるをしりぶんにやすんず」と書き下しますが、「ちそくあんぶん」と音読みするのが一般的です。
意味は「分をわきまえて満足すること」。
人間の欲望には際限がありません。望むものが一つ手に入っても、次々とまた他のものが欲しくなります。
そんなことを繰り返していると、現代人は死ぬまで幸せにはなれません。
「幸せは外側に求めるものではない、自分の中にこれで満足だと感じることができれば、そこに幸せを見いだせるのだよ」というのがこの禅語の教えです。
5.物への執着をなくす「無一物中無尽蔵」
「無一物中無尽蔵」は、中国の詩人、蘇東坡の詩の一節からとられたものです。
「むいちもつちゅうむじんぞう」と読み、その直接的な意味は「何一つない中に、無限のものが生まれる」となります。
現代人は、何かを手に入れようとしてあくせくと時間を費やし、心にもないことを言って、どうにか自分のものにしようとしますが、なかなか思うように事は運びません。
しかし、「一度すべてを手放してみると、執着心にくらんでいた視界が晴れて、その先には豊かな世界が広がっているよ」というメッセージがこの禅語からは伝わってきます。
勇気や元気を与える禅語5選
6.どんな環境も自分を磨く場所「歩歩是道場」
「歩歩是道場」は、「維摩経」に見られる言葉です。
「ほぼこれどうじょう」と読み、「歩くところすべてが道場である」というのが直接的な意味となります。
ある修行僧がじっくりと修行に取り組みたいと、環境の良い道場を探していたところ、修行帰りだという一人の僧に出会いました。
その道場はどこにあるのかと尋ねた修行僧に、やってきた僧は「それは心の中にある」と答えたという逸話がこの禅語のもとになっています。
今いる場所は自分に合わない、ここでは力が発揮できないなどと、人は往々にして現在の境遇に不満を抱くことがありますね。
しかし、どのような場所であっても自分を磨き高めてくれる道場であると覚悟した時点で、その人の心は輝きを放ち始めるのです。
置かれた場所が重要なのではなく、置かれた場所でいかに自分を磨くのかこそが真に大切であると、この禅語は教えてくれます。
7.日常生活のすべてを遊びに「遊戯三昧」
「遊戯三昧」は、無門慧開の著した「無門関」に見られる言葉です。
「ゆげざんまい」と読み、「仏の境地でどのようなことも楽しみ尽くす」というのが直接的な意味になります。
家庭や会社で何か嫌なことがあっても、自分の好きなことを思い切り楽しめば気分がスッキリしますよね。
その好きなことを、生活のあらゆる場面で感じるようにしよう、というのがこの禅語の教えです。
自分はこれが好きだから、これさえやっていれば幸せを感じられる。
でも、これは苦手だからやっても面白くない。
そんな好き嫌いはさっさと捨てて、どんなことでも楽しめるようにしよう。
そうすればつらい時でも元気が出て、生きる喜びにつながるよと禅語は伝えているのです。
8.信じる道をしなやかに生きる「一以貫之」
「一以貫之」は、「論語」にある孔子の言葉です。
「いちいかんし」と読み、「一を以て之を貫く」と書き下します。
直接的な意味としては「一つのことを最後までやり遂げる」ということになります。
ただしこの禅語は、頑固一徹に自分のやり方をやり通す、どんな言葉にも耳を貸さず何が何でも己を曲げない、という意味ではありません。
孔子の信条である「思いやり」の心をもってやり遂げよ、と言っているのです。
情報があふれる現代で自分の信念を貫き通すためには、多様な価値観を持った人たちと協調しながら事を進めていく必要があります。
自分の意見だけが正しいと意固地になって孤立すれば、どんな立派な志も完遂することはできません。
一つのことをやり遂げようとするのであれば、周囲の人の意見にも耳を傾け、思いやりをもって尊重し、受け入れるべきは受け入れるというしなやかさが必要だと伝えているのですね。
9.心のままに過ごす「晴耕雨読」
「晴耕雨読」は、明治時代の文学者である塩谷節山の漢詩の一節です。
「せいこううどく」と読み、「晴れた日は畑を耕し、雨の日は読書にいそしむ」というのがその意味になります。
漢詩は、この一節のあとにさらに「悠遊するに足る」と続きます。「ゆったりと満足した気持ちになる」といった内容ですね。
現代でいえば、まさしくスローライフといったところでしょうか。
あくせくした毎日を手放して、必要最低限の条件の下で生きるのであれば、心はおのずと自由になる。
人として理想的な生き方ともいえそうですね。
10.前進するためにはまず足元から「看脚下」
「看脚下」は、中国・宋の時代、五祖法演禅師との会話で、弟子の圓悟克勤禅師が発した言葉であるとされています。
「かんきゃっか」と読み、直訳は「足元を見る」となります。
さて、二人の会話が始まるのは、夜道を寺に帰る途中での出来事、風で提灯の灯りが消えて真っ暗になったその時です。
師匠は、「真っ暗になってしまったがどうする」と尋ねました。
弟子の答えは、「足元を見る」、すなわち、つまずかないように気をつけながら歩いていきましょう、というものでした。
これは、暗いとか歩きにくいとか余計なことは考えないで、しっかりと足元を見て歩くという気持ちを表した言葉、つまりは自分をありのままにしっかり見つめながら進む、という禅修行への決意を語ったものなのです。
日常生活の中で、人はたびたび他人と比べて威張ったり落ち込んだりすることがあります。
しかしそれは自分自身を良く生きるうえで何の利益にもならず、行く手を阻む障害物にしかなりません。
信じた道をしっかりと前に進むためには自分の足元をしっかり見つめて歩く。
「看脚下」という禅語は、そういう気持ちを大事にせよと教えているのです。
人間関係を円滑にする禅語5選
11.自分と他人は繋がっている「自他不二」
「自他不二」は、大乗仏教の理論に基づいた考え方です。
「じたふじ」と読み、「自分と他人は一つである」というのが直接的な意味となります。
自分は自分、他人は他人、はっきりと分かれているのではないか。どこが一つなの、と思われるかもしれません。
確かに、理屈はそうです。
しかし、自分が自分をいとおしく思うように、他人もやはり自分が一番いとおしい、と感じているのです。
その意味では、誰にとってもいとおしいのは自分自身で、結局は誰もが一緒、つながっているというわけですね。
人が集まると、自分と他人の関係が生まれます。
自分が自分が、と我をはって他人をおしのけると、他人は同じようにこちらをおしのけようとします。
自分を大切にしてもらいたいなら、他人を大切にすること。
それが人間関係を円滑にする秘訣であると、この禅語は教えてくれています。
12.それぞれの個性を敬いあう「和敬静寂」
「和敬静寂」は、劉元甫の「茶堂清規」に由来する言葉で、茶道の精神を表す禅語として知られています。
「わけいせいじゃく」と読み、茶会での主客の心得を「和敬」、茶室や茶道具の心持を「静寂」という言い回しで表現しました。
茶道を大成した千利休が茶道の本質として掲げている言葉でもあります。
禅語としての意味は、「和らいだ気持ちで相手に接し、慎み深く落ち着いてこそものごとは大成する」ということになります。
茶会という小さな空間の中で、主客がお互いの立場を尊重しながらそれぞれの役割を果たす、それでこそ「場」は成立するのであり、一つの世界が完成します。
社会の中でも、何かの仕事やプロジェクトを成功させようとすれば、互いの立場を尊重しながら作業を進めることが大切で、この禅語は人間関係を考えるうえでの大きなヒントを教えてくれているのです。
13.すべての出会いは一生に一度「一期一会」
「一期一会」は、千利休の弟子で茶人の山上宗二が著した「山上宗二記」に見られる言葉です。
「いちごいちえ」と読み、「一生に一度」という意味になります。
「一期」とは仏教用語で「一生涯」を表し、「一会」も法要などの集まりをさすものですが、茶会の心得を尋ねた弟子に対して答えた利休の言葉がこの禅語の由来だとされています。
その言葉とはすなわち、「一生に一度の機会だと思って、主客ともに最善を尽くせ」
これは茶会だけでなく、日常生活にも大きな教訓を与えてくれる禅語です。
人との出会いも、巡ってきたチャンスもこれが最後かもしれない、そう思えば、行動する熱量が高まりますね。
この出会い、この巡り合わせはこれが最後かもしれない、常にその気持ちで生活すれば後悔のない人生を送ることができる、この禅語はそんなことを教えてくれます。
14.心も洗えばきれいになる「洗心」
「洗心」は、「易経」の一節、「聖人これをもって心を洗ひ、密に退蔵す」に由来する言葉です。
「せんしん」と読み、「心を清めて純粋な状態になる」という意味となります。
人は何かを成そうとして、自分の考え方は絶対に正しい、こうあるべきだと思い込んでしまうことがあります。
それこそが信念だ、という考え方もあるでしょうが、実は偏見から来るとらわれ、すなわち固定観念に過ぎないのかもしれません。
そのようなこだわりを捨て、あるがままの自分を見つめること、それが「洗心」です。
言葉の意味は単純ですが、実践することは決して簡単なことではありません。
だからこそ、禅語として心の戒めとなっているのかもしれませんね。
15.今自分にできることに専念する「莫妄想」
「莫妄想」は、中国・唐時代の無業禅師の言葉と伝えられています。
「まくもうそう」と読み、「妄想にとらわれるな」というのが直接的な意味です。
無業禅師は、誰に何を聞かれても常に「莫妄想」と答えていました。
「これはどういう意味ですか」と聞かれ「妄想にとらわれるな」とやり返すのがパターンだったわけです。
その真意はこうです。
つまり、どういう意味なのかなどと考えないようにしさえすれば、問題はもう解決しているのだ、あれこれ考えないでなすべきことを成せ。
毎日の生活の中で、何かうまくいかないことがあると、どうしてもその原因が知りたくなります。
人間関係も同じこと。
なぜあの人はあんなことを言ったのだろう。なぜ自分に冷たくするのだろう。
いろいろな疑念が浮き上がっては消えていくことってありますよね。
しかし、考えても事態が好転するわけではないし、落ち込んでいるだけ時間の無駄ともいえるかもしれません。
それよりも今自分ができることだけを一生懸命やる、結局はそれが自分を自由にしてくれることにつながるのです。
自分を見つめ直す禅語5選
16.結果や見返りを求めない「無功徳」
「無功徳」は、禅宗の祖、達磨大師の言葉として伝えらえています。
「むくどく」と読み、直訳すると「功徳がない」という意味です。
仏法について中国・梁の武帝と対話していた達磨大師は、仏法を貴ぶ見返りにどのような功徳が得られるかと聞かれてこう答えました。
「功徳などありません」。
仏法を貴ぶのは功徳を得るためではなく、貴ぶ気持ち自体がすでに功徳なのだというのです。
人は、行ったことに対価を求めがちです。
しかし、対価を得るために何かをするのであれば、対価が得られない場合は非常に憤慨します。
「あんなにしてあげたのに、感謝されない」。
「これだけ貢献しているのに、全然見返りがない」。
その不満は自分を苦しめ、とらわれた気持ちから逃れることができません。
結果や見返りを求めない生き方こそ心に自由をもたらすのだ。
この禅語はそう教えてくれます。
17.人生とは日常「行住坐臥」
「行住坐臥」は、仏教の戒律や規則に関する用語として広く知られている言葉です。
「ぎょうじゅうざが」と読み、「歩く・止まる・座る・寝る」が直接的な意味になります。
四威儀とも呼ばれ、仏道の修行者が最も大切にしている戒律の基本とされているものですが、広い意味では日常すべての動作をさしていう場合もあります。
私たちは普段、何か特別な場面で本領を発揮したり、ここぞという時にだけ全力を尽くそうとしたりする傾向にありますが、実はいついかなる時でも人生は本番で、常に修行の場であるのだよ、ということを教えてくれるのがこの禅語です。
逆に言えば、私たちはどんな時でも本番を生きているので、特定のイベントに対してこれは人生の重大事だ、失敗できないぞなどと構える必要もない、ということになります。
そう考えると、なんだか気が楽になりますね。
18.自分自身を頼りに生きる「自灯明」
「自灯明」は、釈迦が亡くなる際の、最期の言葉とされています。
「じとうみょう」と読み、「自分が灯りになりなさい」というのが直接的な意味です。
自分が灯りになるということは、他人の灯りを頼りにしないということ。
つまり、自分に自信を持って自分の判断を尊重しながら生きていきなさいという教えが、禅語に昇華したものだといえます。
釈迦はこの最期の言葉を弟子たちに残しましたが、現代を生きる私たちにも強く響く言葉ではないでしょうか。
空気を読む、忖度する、出過ぎない、目立たない。
自分を無くして周囲に合わせると楽ではありますが、空しさしか残りませんね。
自分を頼りに人生を切り開け。
この禅語はそう教えてくれているのです。
19.二者択一だけではない「両忘」
「両忘」は、中国・宋代の儒者である程明道の言葉だとされています。
「りょうぼう」と読み、「両方忘れること」が直接的な意味です。
ものごとには常に2つの局面があります。
たとえば、生死や善悪、白黒、是非などすべてはものごとの表と裏です。
そして私たちは、常にこの2つの中からどちらかを選ぶことを当然だと考える傾向にあります。
二者択一をしてこそ次の選択肢に進むことができ、選ぶことで毎日を暮らしているのだと。
しかし、そこには苦しみも生まれます。
どちらも捨てがたいと葛藤し、しかしどちらかを選ばなければならないと諦めます。
思い切って、選択することをやめてみてはどうでしょうか。
2つとも採らず、採らないこと自体に価値を見出す考え方です。
人間関係の板挟みにあっているのなら、どちらかを選ぶことに頭を悩ませるのではなく、人間関係自体を離れ、他のものに気持ちを向ける。
そんな人生の知恵も、この禅語は教えてくれています。
20.思い込みを手放す「放下着」
「放下着」は、「五家正宗賛」にある趙州和尚の章に見える言葉です。
「ほうげじゃく」と読み、直訳すると「捨ててしまえ」という意味になります。
言葉の背景にはこういう物語があります。
趙州和尚のもとに、修行を終えた僧がやってきて「自分はすでに煩悩も捨て去り、無の境地になった。今後どう修行したらよいか」と質問しました。
これに対して和尚が投げつけた言葉が「放下着」でした。
何もかも捨てたという僧に、捨てろといっても捨てるものがありません。
しかし、実は無の境地を得たことを誇る気持ちが、僧の心には残っていたのです。
その慢心を見抜いた和尚が一喝、初めて僧は修行の不完全さを自覚したというわけでした。
自分では完璧に仕上げたつもりなのに、誰にも評価されない仕事があったとすれば、それはうまくできたという思い込みに惑わさているからかもしれません。
「放下着」の気持ちで、虚心坦懐に結果に向き合えば、原因がおのずから見えてくることもあるのです。
まとめ 〜禅語で心豊かに生きよう〜
禅というと、お坊さんだけが取り組む修行方法だと考える人も多いかもしれません。
しかし禅とは、精神を統一して自分と向き合うのが本来の意味。
私たち一人ひとりの日常生活でごく身近に実践できる、心の整え方でもあります。
そして、その禅の境地を言葉に凝縮したものこそが禅語です。
簡潔に分かりやすく処世のかなめを示し、ありのままの自分を肯定してくれるのが禅語の魅力。
座右の銘になりそうな言葉や、元気を与えてくれる言葉、人間関係を円滑にしてくれたり、自分を見つめ直すきっかけをくれたりする言葉など20の禅語を解説しましたので、ぜひ参考にしてみてください。
真っすぐに歩いているからこそ、ぶつかることも多いのが人生です。
禅に触れることで、しなやかな心の余裕を取り戻し、心豊かな生活を送ってみませんか。