道元は鎌倉時代の禅僧であり、禅宗の一派である日本の曹洞宗の開祖です。
禅宗は、座禅を修行の根幹として真理の道を究めようとする仏教宗派ですが、曹洞宗は座禅を重んじる禅宗の中でも、ひたすら座り続けることを徹底する「只管打坐(しかんたざ)」の禅風に特徴があります。
その教えを確立し日本に広めたが、まさに道元なのです。
「仏性とは、修行で得るものではなく誰もがすでに得ているのである」。だからひたすらにその境地を磨け、という道元の禅思想は、日本屈指の禅の指導書であると同時に、哲学書の金字塔とも称される著書「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」を生み出して今に伝わります。
武士階級や一部の知識人だけでなく、男女を問わず農民や労働者といった庶民層にも禅を広めていった道元ですが、その出発点は「何のためにこんなつらい思いをするのか」といった修行への疑問でした。
私たちと同じような迷いの森をさまよっていた一人の修行僧が、いかにして日本の精神史に巨大な足跡を残す名僧といわれるようになったのか、この記事でぜひ確かめてみてください。
道元の生涯
幼少期:両親を失い、出家を決意
道元は1200年に京都で生まれました。幼名は文殊丸(もんじゅまる)
父は久我内大臣通親、母は松殿関白基房の娘と伝えられています。名門の家柄で裕福な幼少期を過ごしますが、わずか3歳で父を、8歳で母を立て続けに亡くしてしまいます。
「母を弔う線香の煙を見てこの世の無常を感じ、出家しようと強く決意した」。道元はその時の心境を、後にこう述懐したのでした。
孤児となった文殊丸は、母方の叔父にあたる松殿師家に引き取られます。師家は幼いころから文才にたけ、神童とも呼ばれていた文殊丸をゆくゆくは朝廷に出仕させようと考えていました。
しかし文殊丸の決意は固く13歳で家出すると、翌年には比叡山の天台座主、公円のもとで剃髪し、とうとう出家を果たしました。
道元という名のりは、14歳のこのときからです。
出家:比叡山で天台宗を学び、明全和尚に師事
比叡山での修行
道元が出家した当時は、比叡山の天台宗が最大の仏教教派でした。数多くの高僧を輩出しているのも天台宗だったので、仏法を究めるには最高の環境であると、道元自身も思っていたに違いありません。
しかし内実は異なりました。
比叡山では僧兵が力を得て他山と闘争を繰り返しており、高僧といわれる人たちも、実は名利を求める貴族出身者で占められていたことが次第にわかってきたのです。
加持祈祷を繰り返す厳しい修行の中で落胆する道元ですが、さらなる疑問も浮かんできました。
「そもそも、人は本来仏であると教えている。そうであれば、なぜこのように厳しい修行をして、このうえ何の悟りを得る必要があるのだろうか」。
苦悩を抱えたまま、とうとう道元は比叡山を下りました。
禅宗との出会い
向かった先は、父・通親と同族の系譜に連なる園城寺長吏の公胤のもとでした。
公胤は道元に禅宗という新しい教えを紹介します。それは中国・宗で臨済宗を会得して帰国後、京の建仁寺を拠点に教えを広めていた栄西の教義でした。
その教えに光を見出した道元は、18歳で栄西を訪ねて建仁寺に赴きます。しかし、そのときすでに栄西は亡くなっており、栄西の高弟である明全和尚がその教えを継いでいました。
道元は明全和尚に教えを乞い、そのもとで修行に励みます。
しかしその教えにも納得しきることはできず、禅宗を生んだ宋への渡航を切望するようになったのです。
中国留学:如浄禅師に師事し悟りを開く
如浄禅師との出会い
1223年、24歳になった道元はついに宋に渡ります。各地を転々として禅の師を求めるうちに、禅宗五山の一つ、天童山景徳寺にのぼります。
そこで出会ったのが曹洞禅の如浄禅師でした。
道元は、対面してすぐ「この方こそ師となるべき人である」と直感し、如浄禅師も道元のことを、「これは教えるに足る器である」と認めたといいます。
こうして弟子となることを許された道元は、以後5年間、如浄禅師のもとで厳しい修行に励みます。
如浄禅師の教えは「ただひたすらに座ること」、つまり「只管打座」のほかにありませんでした。
道元の悟りを開いたきっかけ
ある時、道元が道場で座禅を組んでいると、隣で居眠りをする修行者がいました。
これを見た如浄禅師は、「座禅は身心脱落でなくてはならぬ。眠気に引き寄せられてどうするか」と大声で叱りつけました。
道元は、その大音声が体に響いた瞬間、悟りを開いたといいます。
身心脱落。欲や分別、すべてのものがそぎ落とされて仏性が現れる。
仏性は、日常のいついかなる時でも、あるがままの姿の中に宿っているということを、すなわちその大音声のうちに体得したのです。
帰国後の活動:興聖寺や永平寺を建立し、日本曹洞宗の開祖となる
悟りを得た道元は、28歳で帰国して建仁寺を拠点に活動を開始します。
まず行ったのは、身分の上下なくすべての人に禅を勧める「普勧坐禅儀」の執筆です。
ただひたすらに禅を組むことで、あらゆる苦悩から逃れられるというその内容は、武家や知識層だけでなく、農民や労働者の間にも次第に受け入れられていきました。
しかし、天台宗をはじめとする既存の仏教界には、その人気が脅威に映ります。この新奇な教義は衆生を惑わすものであるとして、道元は建仁寺を追われました。建仁寺もまた、天台宗の末寺格だったのです。
既存勢力の迫害を逃れた道元は、母方の祖先にゆかりの深草・安養院に身を寄せます。
そして後に興聖寺と改名したこの場所で、「目に映るすべてものはそのまま仏性が現れた姿である」という曹洞禅の根幹をなす思想を、「現成公案」の巻に記しました。
興聖寺には、道元の思想に共感した入門者が続々と集まり、次第に注目を集めるようになりましたが、既存の仏教勢力は快く思わず、さらに迫害を強めました。
その事態を憂慮していたのが越前の有力武士で、六波羅探題なども務めた波多野義重です。
道元のよき理解者でもあった波多野は、越前に拠点を移すことを強く進言し、道元もその誘いに応じてついに越前へ移住、曹洞宗開祖としての不動の拠点を築きました。
それが傘松峰大仏寺であり、後に名を変えた曹洞宗の大本山、永平寺なのです。
道元の功績
曹洞宗を開基
道元は、日本に禅宗の教えを広めた人で、臨済宗を開いた栄西とともに、座禅を中心とした独自の修行方法を確立しました。
それが曹洞禅と呼ばれる禅風であり、曹洞宗の根幹をなす修行の在り方です。
曹洞宗の座禅の特徴は、経典や文字によらずひたすら坐禅を組むことで悟りを開こうとするもの。また、日常の労働である「作務」を修行の場とする点にも特徴があります。
禅の教えを一般庶民にも広め、日本最大級の信徒を持つ伝統仏教として今に伝わる曹洞宗。その開基こそが、道元その人なのです。
曹洞宗の大本山である永平寺を建立
道元は、越前の国福井県に永平寺を建立しました。
言わずと知れた曹洞宗の大本山であり、日本を代表する禅寺の一つです。
道元の教えを忠実に守りながら、座禅を中心とした厳しい修行が行われる道場としての役割も果たし、ここで学んだ多くの禅宗僧侶が、各地でその教えを伝えています。
永平寺はまた、禅の修行の場としてだけでなく、多くの人々が参拝する心の拠り所としても知られています。
仏法はすべての人に開かれなければならない、という道元の言葉に従って、永平寺で行われる座禅や法話は誰でも参加することができ、現代社会においても多くの人々に生きる指針を与え続けているのです。
現代に通じる道元の影響|世界的に支持される日本の「Zen」
座禅を通じて精神の統一を図る道元の教えは、現代においても瞑想やマインドフルネスに応用されて、世界的にも実践者の数を増やしています。
たとえば、アップルの創業者であるスティーブジョブズなどが禅の愛好者であることは広く知られた事実です。
禅の教えは侘び・さびを重んじる日本文化とも親和性が高く、あらゆるジャンルで大きな影響を与えています。
禅を世界に紹介した名著として鈴木大拙博士の「禅とは何か」がありますが、そこに紹介された禅と日本文化の精髄は世界的にも高く評価され、世界共通語の「ZEN」として、グローバルカルチャーを語るうえでのキーワードの一つにもなっているのです。
道元の教えと名言
只管打坐(しかんたざ)
「只管打坐」とは、「ただひたすらに座ること」をいいます。
道元が宋に渡って如浄禅師のもとで修行をしていたとき、師から常に言われていた言葉で、曹洞禅の本質をつく思想でもあります。
座禅は悟りを得るための目的ではなく、ただひたすら座禅に打ち込むことそれ自体が悟りの姿なのである、ということを言っているのです。
身心脱落(しんじだつらく)
「身心脱落」とは、「一切の執着心、すなわち自意識を手放すこと」をいいます。
道元は、如浄禅師が発したこの言葉によって悟りを開いたといわれています。
心に浮かぶ分別や欲望は、すべて自意識から生まれてくるものです。
その自意識がある限り、自分を捨て去ることはできません。
すなわちあらゆる執着を捨て去って、心を縛るしがらみをすべて取り払ったときにこそ、初めて悟りに至る自由な境地が訪れるのだ、と言っているのですね。
修証一等(しゅうしょういっとう)
「修証一等」とは、「座禅をしている状態そのものが悟りの体現である」ということです。
「修」とは、座禅の修行のこと、「証」とは、悟りに至っている状態をいいます。それが「一等」、つまり同じものだということです。
座禅を組むのは、悟りを得ることを目的とするためではありません。悟りを得ようとして座禅すること自体が、すでに分別に汚された執着の心なのです。
ただひたすらに座ること。座禅はそれ自体で、すでに悟りを得ている状態なのである、ということが修証一等という言葉の本意です。
仏道をならうというは自己をならうなり
「仏道をならうというは自己をならうなり」とは、「仏の道を学ぶということは、自分自身を学ぶことである」という意味です。
道元のこの言葉は、「自己をならうというは自己をわするるなり」と続きます。「自分自身を学ぶとは、執着心を捨て無我になることである」という意味です。
つまり、「仏道を学ぶことは、すなわち自分の執着心を捨てること」。
先ほど見た「修証一等」や「放てば手に満てり」にも通じる禅の奥義を示しているのです。
放てば手に満てり
「放てば手に満てり」とは、「手放すことによって、大切なものが手に入る」という意味です。
座禅では、心を無にして自由の境地を得ることをめざします。
しかし簡単なことではありません。
心を無にしようとすればするほど雑念が浮かんできて、かえって無心になれないという悪循環に陥ります。これは、無心にならなければという執着心があるからです。
「無心にならなければ」というこだわりを捨て、「雑念が生まれてもしかたない」と開き直れば心が落ち着きます。
この執着心の放棄こそが、「放てば手に満てり」の意味するところなのですね。
道元が開いた曹洞宗の教え・特徴
曹洞宗の座禅観:黙照禅とは
曹洞宗の座禅は、「黙照禅」という禅風で説明されます。黙照禅とは、無心になってただひたすら座り続ける「只管打坐」の座禅です。
これは、臨済宗の「看話禅」に対する言葉で、両者には座禅観に違いがあります。
看話禅は、師匠から与えられた「公案」と呼ばれる禅の問題について、その答えを懸命に考えながら座禅して悟りを開くことをめざします。
一方で、黙照禅では思慮分別を一切用いません。
ただひたすらに座禅を続けて、得られた自由の境地の中に自らの仏性を見出そうとするのが曹洞宗の座禅観です。
曹洞宗の修行観:日常がすべて修行
禅宗では、座禅を組むことを修行の中心に据えますが、曹洞宗では、それに加えて日常生活の立ち居振る舞いすべての場面が、修行の場であると捉えます。
たとえば部屋の掃除や食事の支度、家事洗濯にいたるまで、あらゆる労働を「作務」と名付けて無心になって行います。
悟りは求めて得るものではなく、すべての行いの中にすでにある、という立場で修行に励むのですね。
曹洞宗と他の禅宗との違い:臨済宗との比較
日本の禅宗には、曹洞宗のほかに臨済宗と黄檗宗があります。
いずれも座禅が修行の中心になりますが、臨済宗と黄檗宗が公案を修行に取り入れているのに対して、曹洞宗はただひたすら座禅を組む「只管打坐」と「作務」が修行の柱となります。
臨済宗が主に武士階級や知識人の間で支持されたのに対して、曹洞宗は、地方の豪族や庶民階級を中心に広まったという点にも違いが見出せるでしょう。
正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)
正法眼蔵とは?
「正法眼蔵」とは、道元が生涯をかけて書き綴った禅の思想書であり哲学書です。
「正法」とは釈迦の教え、「蔵」は米蔵の意味のような文字通りの保管場所、そして「眼」は正法を見分ける目、つまり智慧をさしています。
「釈迦の教えを、智慧をもって選別した保管場所」というのが書名の意味になるのですね。
釈迦の教えは生涯84000にものぼると伝えられ、その教えは経典などさまざまな形で後世に受け継がれています。
しかし中には誤って伝えられている内容もあり、智慧をもって見定めた本当に正しい教えを世に残していかなければならないというのが執筆の動機となりました。
仏教や思想、作法など幅広いジャンルに言及した95巻の大作は、32歳から亡くなる54歳にかけてたゆまず書き綴った道元畢生のライフワークです。
正法眼蔵の構成
正法眼蔵では、「弁道話」から「八大人覚」まで95巻をまとめた仮名版をさすのが一般的ですが、実はこの仮名版に加え、真名版も残されています。
真名版というのは、中国の禅宗が伝える公案の中から、道元が300の禅問答を抜粋して注釈を加えたもの。
正法眼蔵では、禅問答をいくつか取り上げて、それに注釈を加えながら禅の教えをわかりやすく伝えるという展開を構成の柱としています。
その禅問答の引用先、つまりネタ元が真名版だったというわけですね。
正法眼蔵の内容(現代語訳)
正法眼蔵が伝える内容とは、座禅によってこそ得られる仏法の本義と、悟りを得た後の清明な境地を精髄として、これをあらゆる方面から解き明かすということに尽きるでしょう。
難解な内容ですが、さまざまな現代語訳もなされていますので、参考にしてみてはいかがでしょうか。
主な現代語訳を紹介しておきます。
正法眼蔵をわかりやすく解説した書籍
正法眼蔵は、先に紹介したように様々な現代語訳が出版されていますが、もともと難解な内容なので、説かれている意味そのものがわかりにくいというケースも少なくありません。
その理解を助ける解説書として、「とてもわかりやすい」と評価の高い本がありますので紹介しておきます。
それは、仏教思想家のひろさちやさんが書いた「道元 正法眼蔵 わからないことがわかるということが悟り」です。
難解な仏教思想でも、わかりやすくかみ砕いて説明してくれる手腕に定評のある作者ですが、正法眼蔵についても身近な言葉で押さえるべきポイントをクリアに示し、禅の理解に背中を押してくれる必読の一冊です。
正法眼蔵が哲学書の金字塔と称される理由
正法眼蔵は、座禅の指導書として優れているだけでなく、禅の思想をさまざまな角度から初めて体系的にまとめて論じた点で、日本仏教史上最高峰の名著とされています。
またその思想は仏教の世界だけに留まらず、自己とは何かという哲学的な問いも触発しており、多くの作品に影響を与えていることが知られています。
兼好法師の「徒然草」や世阿弥・観阿弥の「能楽論」、現代では和辻哲郎の「沙門道元」などがその好例といえるものでしょう。
道元の著書
普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)
「普勧坐禅儀」は、日本で最初に書かれた座禅の指南書です。
宋から帰国してすぐに書き下ろした開教宣言の書とも言え、座禅の意義や具体的な作法を記すとともに、身分を問わずすべての人が座禅の教えを学ぶべきであると述べています。
永平広録(えいへいこうろく)
「永平広録」は、道元が興聖寺を開いてから亡くなる前年まで、弟子たちに行った説法などを集めた全10巻の語録です。
座禅こそが悟りを成し遂げた後の理想の境地をもたらす、という立場から、仏法の本義を簡潔に弟子たちに示しています。
この永平広録を詳細に肉付けしたものが正法眼蔵で、正法眼蔵と並ぶ説法集として両者は密接に関連しています。
典座教訓(てんぞきょうくん)
典座とは禅寺の食事係のことです。
道元は、食事や掃除といった労働を禅の重要な修行の一つとして位置付け、日頃から生活の心得を宗僧に示していましたが、特に「典座教訓」は典座の果たすべき役割や心構えを詳細にとり上げて、食の立場から仏道修行の重要性を説いたものです。
その他著書:学道用心集、宝慶記、弁道話
この他、修行僧が仏道を学ぶ際の心得(用心)を説いた「学道用心集」や、宋に渡って修行していたころに、如浄禅師の教えをメモのかたちで記録した「宝慶記」、座禅こそが正伝の仏法であると示し、正法眼蔵の第一巻として位置付けられている「弁道話」なども、道元の主要な著作として挙げられるものです。
道元ゆかりの寺
永平寺
永平寺は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山です。
道元の思想を体現した厳しい修行道場としても知られ、雲水と呼ばれる修行僧たちが座禅や読誦、作務などさまざまな修行に励んでいます。
永平寺はまた、正法眼蔵が保管されていることでも知られ、禅の思想を学ぶ人々が訪れる聖地にもなっています。
興聖寺
伏見深草の興聖寺は、道元が宋から帰国後、最初に住んだ寺であり、また日本で初めての禅宗寺院であるとされています。
禅の指南書として日本初の書といわれる普勧坐禅儀を完成させたのも、この興聖寺です。
戦乱により一時廃絶されましたが、江戸時代になって宇治山田に再興され、今も大勢の雲水たちがこの場所で厳しい修行に励んでいます。
道元を扱った作品
「禅ZEN」:道元の生涯を描いた映画
道元の生涯は映画化もされました。
それが2009年に公開された日本映画「禅ZEN」(監督:高橋伴明・角川映画)です。
大谷哲夫の小説「永平の風 道元の生涯」を原作として製作されたこの映画では、主演の道元を中村勘太郎が務め、時の執権、北条時頼に藤原竜也、遊女おりんに内田有紀が扮して脇を固めました。
描かれているのは、仏道の正師を求め24歳で宋に渡った青年期から、雪の永平寺で座禅を組みながら54歳で入寂するまでの波乱の道のり。
宋に渡って目の当たりにした仏教界の腐敗、師である如浄(にょじょう)禅師との出会い、只管打座の悟りを得て帰国した後に待ち受けていた旧勢力の迫害など、若き道元には苦難の日々が続きます。
しかし逆境の中でも信念を曲げず、遊女にも執権にも身分の分け隔てなく人々に禅の教えを説き続ける道元の姿が印象的です。
道元の目指した禅の精神が、史実を踏まえながらわかりやすく描かれている作品であるといえるでしょう。
道元禅師の教えを実践
座禅のやり方
座禅は静かな場所で行い、精神を統一して自分の心と向き合うことが大切です。
道元禅師の曹洞宗では、「面壁」といって壁に向かって座禅を組みます。
作法にならって足を組み手を置いて、あとはひたすら心を無にしていくのですが、最初はどうしても雑念が浮かんできてしまうもの。
そこで大切なのが、すんなりと無の境地に入るための基本動作であり、調身・調息・調心という3つの動作がそれにあたります。
- 調身:姿勢をただすこと。
- 調息:呼吸を整えること。
- 調心:調えた呼吸に集中すること。
この動作を繰り返して心が静まった後は、呼吸に合わせてゆったりと数を数えます。
「数息観(すそくかん)」という方法です。数息観を用いて平静を保ち、ゆっくりと瞑想を深めていく。
この一連の流れが、座禅の一般的なやり方になります。
座禅の効果
座禅は自己の内面を虚心坦懐に見つめ、心の真実に触れて悟りを開くための修行です。
その一方で、座禅には心身に作用する素晴らしい効果があることも知られています。
たとえばストレスの解消はその代表的なもの。ストレスは内外の要因に自律神経が乱されることで蓄積します。
座禅による瞑想状態は、セロトニンという神経伝達物質の分泌を活発に促しますが、これは別名「幸せホルモン」と呼ばれているもので、乱れた自律神経を整えることにすぐれた効果を発揮するのです。
そのおかげでストレスは軽減され、イライラや落ち込みといった心の不調の改善につながります。
自律神経の乱れは、ストレスを引き起こすだけではありません。肩こりや倦怠感、食欲不振や冷えといった身体症状も引き起こす要因なのです。
座禅を行うと、これらの厄介な不調の改善が期待できますので、一般の人の間に愛好者が増えていることもうなずけますね。
なお、座禅の効果については以下の記事に詳しくまとめています↓
参禅できる曹洞宗のお寺
座禅のやり方やその効果が分かったら、「静かな環境で、一度本格的に座禅を組んでみたい」という気持ちが生まれてくるかもしれませんね。
では実際に体験してみましょう。
曹洞宗のお寺では、だれでも座禅を体験できるよう、各地の寺院が一般の参禅を受け入れているのです。
たとえば大本山の永平寺でも、受け入れの日を毎月設けて日帰りや宿泊での参禅機会を提供しています。
インターネットで検索すると、「曹洞禅ナビ」という曹洞宗の公式ポータルサイトがありますので、参禅できる身近なお寺をぜひ調べてみてください。
まとめ:道元の教えを学び、座禅を実践して心身ともに健やかに
「只管打坐」の悟りを得た道元が、宋から日本へ帰国する間際、師の如浄禅師から申し渡された言葉があります。
「権力に近づかず、深山幽谷で仏道に励み、弟子を多く育てよ」というのがその訓戒でした。道元はその教えを忠実に守り、京から遠く離れた永平寺で数多くの弟子を育てます。
一方、半年という短期間ながら鎌倉に下って、時の執権・北条時頼に禅の教化を行ったこともありますが、権威におもねったことを後に激しく後悔したとも伝えられています。
道元が説く禅の教えは、この真っすぐな生き方がそのまま反映されているかのような、規律を重視した峻厳なものであるといえるでしょう。
しかし厳しさだけではありません。
「愛語」や「同事」の言葉で教えようとした「相手へのやさしさや思いやりの心」も、道元の禅を貫く大きなテーマであるといえるものです。
仏性は、すでに誰の心の中にも備わっているものだと道元は語ります。そして、ただひたすらに座禅を組み、その仏心を磨けと教えています。
道元の言葉を噛みしめながら、この奥深い禅の境地をぜひ一度体験してみてはいかがでしょうか。