栄西とは?日本に臨済宗とお茶を伝えた偉大な禅僧の生涯

    栄西は平安末期から鎌倉初期の人で、禅宗の一派である臨済宗の開祖です。日本に初めて抹茶の製法・文化を伝えたことから、「茶祖」とも称されています。

    禅宗は、座禅を修行の根幹として悟りの境地を究めようとする仏教宗派ですが、臨済宗は座禅とともに公案を重視し、師との厳しい禅問答を繰り返しながら自らの仏性に開眼することをめざす禅風が特徴です。

    この臨済禅の精神を日本に根付かせたのが栄西です。さらには、禅宗という思想を日本に確立させた最初の人といってもよいでしょう。

    しかし、当時の仏教界にあって、禅という新興宗派を広めることは並大抵のことではなく、数々の試練を経てようやく京都に念願の拠点を築くことができたのは、すでに62歳になった年のことでした。

    生涯2度にわたる命がけの宋への渡航、喫茶という新たな文化の導入。
    その不屈の向学心とあくなき進取の精神は、曹洞宗の開祖・道元や、茶道の大家・千利休などにも多大な影響を与えて日本文化の骨格を成す精神的な礎となりました。

    この記事では、栄西の事績を詳細にわかりやすくまとめているので、偉大な禅僧の足跡をたどりながら、奥深い禅の世界をぜひ探訪してみてください

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    栄西の生涯

    幼少期〜入宋まで:備中の貴族の子として生まれ、比叡山で天台密教を学ぶ

    幼少期

    栄西は1141年に備中国(今の岡山県)で生まれました。吉備津神社の神職を曾祖父に持ち、貴族階級に連なる裕福な家庭で幼少期を過ごします。

    幼名は千寿丸。利発な秀才で、8歳のころには仏教の教義を記した「倶舎論」や仏教の解説書「婆沙論」を読破したと伝えられています。

    出家

    仏道を志し、備中・安養寺の静心に師事しながら14歳のときに比叡山延暦寺で出家得度。

    以後は天台宗の修行僧となって、「栄西」を名乗るようになりました。(ちなみに、栄西は「えいさい」のほか「ようさい」と読ませる文献もあり、呼び名は定まっていないようです。)

    延暦寺と安養寺を拠点に各地を巡遊しながら天台宗を修める栄西でしたが、17歳のときに師の静心が死去。

    その後は兄弟子の千命を師として学び続け、翌年には荒行として名高い密教の修行法「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」を授けられるまでに教えを究めていきました。

    中国(宋)へ渡ることを決意

    栄西の探究心は留まるところを知らず、天台密教の教義をさらに深く修めたいと、19歳で改めて延暦寺にのぼります。

    しかしそこで見たのは、宗派トップの座をめぐる権力争いや僧兵らの傍若無人なふるまいでした。

    「このままでは日本の天台宗がだめになる」、そう考えた栄西は、宗旨発祥の地である中国・宗で天台宗を根本から学び直すことを決意します。

    入宋:二度の中国渡航で臨済禅に目覚める

    1度目の入宋

    28歳で栄西は宋に渡ります。博多を出帆し20日余りの船旅を経て明州に到着、すぐに天台宗の始祖がまつられる天台山万年寺に赴いて念願を果たしました。

    6カ月余りの中国滞在でしたが、この間に阿育(あいく)王寺で禅宗の教えを学びます。当時、禅宗は中国仏教で主流の座を占めつつあり、天台宗でさえ一目置くほどの勢力を持つ存在でした。

    座禅という行動の中に真理を見出そうとする禅の精神性こそ、論争に明け暮れて混乱に陥っている天台宗の立て直しに必須であると確信した栄西は、以後禅宗の教義を究めていくことを決意して帰国します。

    帰国〜2度目の入宋まで

    帰国後、栄西は比叡山座主の明雲に、宋で入手した天台の新章疏30余部60巻を献上、後に天台密教「葉上流」を開いて開祖となりました。

    栄西のもとには、密教の秘力を用いた雨乞い祈祷の依頼などが寄せられ、後には後鳥羽天皇の勅命にも応えて見事に雨を降らせたりなどしています。

    こうして次第に名声を獲得していった栄西でしたが、その成功をねたむ勢力の妨害を避け、活動拠点は京ではなく、主に備前や備中地方に置いて地道な布教を続けていました。

    そして34歳で鎮西(九州)へ。福岡の誓願寺に招かれて導師となり、以後11年をこの寺で過ごします。

    2度目の入宋

    その間、もう一度海を越え仏道の本流を究めたいとする熱情は日に日に募り、47歳のとき栄西はついに2度目の渡宋を果たして天竺(インド)をめざします。

    ようやくの思いで宋に渡った栄西ですが、天竺行きは西方諸国との関係悪化によって許可されず、やむなく帰国を決意。

    途中暴風雨にあって再び宋の港に漂着すると、今度は天台山にのぼります。そこで出会ったのが臨済宗黄龍派の禅僧、虚庵懐敞(きあんえしょう)でした。

    禅の思想に改めて目を開かされた栄西は、足掛け5年虚庵に師事して臨済禅を学びます。厳しい修行を経て禅の正当な継承者として認められた栄西は、虚庵から印可と法衣を授けられ、帰国したときには51歳になっていました。

    帰国後:日本に臨済宗とお茶文化を広める

    「聖福寺」出典:Pontafon – Photo created by Pontafon, CC 表示-継承 3.0,

    臨済宗の布教

    栄西が宋から帰国して臨済宗を開宗した1191年は、平家から源氏へと政権が移行する日本史の大転換期にあたります。

    既存勢力が淘汰され、新興勢力が台頭する中で、あらゆる価値観が混迷をきわめた大混乱の時期であったといえるかもしれません。

    仏教界の盟主を自認していた天台宗もその例にもれず、自派の地位を危うくする新興勢力に対しては徹底した排除を行っていました。

    栄西はまさにその渦中に開宗したのであり、禅の教えを京に広めるどころか持ち込むこともままならず、やむなく九州を拠点に布教をせざるを得ないという状態でした。

    いつかは京へとの思いを抱きながら、栄西は福慧光寺や千光寺などで教えを説き始め、1195年には55歳で日本初の禅寺といわれる聖福寺を建立します

    栄西の説く臨済禅の教えは徐々に支持を広げていき、九州を中心に次第に勢力を拡大していきました。

    これに脅威を感じた仏教守旧派は、朝廷に働きかけて禅宗の布教禁止令を発布させ、臨済宗を徹底的に封じ込めようとします。

    これに対して栄西は、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著して持論を展開しますが、守旧派の説得に限界を感じて九州を離れ、鎌倉にのぼって新政権に助力を得ようと試みました。

    鎌倉幕府側でも、全国統治を完成させる途上で、旧勢力に替わる新たな文化的権威を模索していたため両者の思惑が一致して、いわば蜜月の関係になったのです。

    これ以降、臨済宗は幕府の手厚い保護を受け、1202年には将軍頼家から土地の寄進を受けて建仁寺を建立、念願だった京都での布教を開始するに至り、75歳で亡くなるまで禅の普及に努めて日本臨済宗の祖と称されました。

    お茶の普及

    一方で栄西には、日本にお茶の文化をもたらした「茶祖」という称号も与えられています

    宋から帰国する際、茶種を持ち帰って植えたことが始まりで、そこから各地に茶の栽培が広まったことからその名が付いたものです。

    ただ、お茶といっても当時は嗜好品としてではなく、もっぱら薬湯として飲用されたものでした。

    たとえば鎌倉幕府の三代将軍、実朝が体調不良に悩まされていた時、栄西がお茶をすすめてたちまち健康を回復したという逸話なども、歴史書の中には残されています。

    さらに飲茶には、薬効だけでなく禅の精神修養の一環としての意味もありましたので、それが後の侘茶という文化の源流になったことを考えると、栄西のもたらした茶の功績は非常に大きなものであったということができるでしょう。

    栄西が残した著書と功績

    興禅護国論:日本における禅宗独立の宣言書

    「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」は、栄西の説く禅宗が比叡山の横やりによって布教禁止の処分となったころに書かれたものです。

    その内容は、禅宗の教えは決して天台宗を否定するものでなく、むしろ擁護するものであるというもので、布教禁止は不当であり撤回すべきであるとも訴えています。

    10項目にわたって禅の本旨を述べ、天台の教えにはもともと仏典からこの禅の部分が欠落していたのだ、だからこれを補いもっと禅を重視すべきだという主張を展開したことによって、日本における禅宗独立の宣言書であるともされているのです。

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    喫茶養生記:日本にお茶文化を広めた茶道書

    「喫茶養生記(きっさようじょうき)」は、栄西が71歳のときに記した茶の健康法についての本で、日本にお茶文化を広めた茶道書のさきがけとして位置付けられているものです。

    本書は「五臓和合門」と「遣除鬼魅門」の上下2巻からなります。

    上巻では、五臓の調和こそが健康の源であって飲茶はこれを補うものであると説かれ、茶の栽培方法や摘み取り方、製造方法などともに、病気を治す具体的な飲み方などが書かれています。

    下巻では、桑が飲水病や中風、脚気など5つの病状に効果を発揮するから茶とともに摂取するのが良く、加持祈祷とあわせることでわざわいが根絶できるなどと記されています。

    このように心身に与える茶の効能を、栽培方法などと合わせて総合的に紹介している点が本書の大きな特徴です。

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    栄西が開いた臨済宗の教えと特徴

    臨済宗の座禅観:看話禅とは?

    臨済宗の座禅は、「看話禅(かんなぜん)」という禅風で説明されます。

    看話禅とは、師匠から与えられた「公案」と呼ばれる禅の問題について、その答えを懸命に考えながら悟りを開こうとする座禅です

    これは、曹洞宗の「黙照禅(もくしょうぜん)」に対する言葉で、両者には座禅観に違いがあります。黙照禅は、無心になってただひたすら座り続ける「只管打坐」の座禅です。

    一方で、看話禅では言葉をもって智慧を呼び覚まします。公案は直感のうちに悟りの境地を与えるもの。与えられた言葉を考え抜いて、瞑想の中に新たな視座を見出すことで悟りを得るのが臨済宗の座禅観です。

    臨済宗の修行観:禅問答と公案とは?

    代表的な公案の一つ「隻手音声」

    禅問答とは、修行者が悟りを開くために指導者と交わすやり取りのことをいい、個々のやり取りを一つにまとめた問題集が公案です。

    禅問答は、修行者の質問に対して指導者が答えるかたちで展開されますが、その回答は理論的なものではありません。

    なぜなら、禅の奥義は通常の言葉で伝えられるものではなく、直感の中に感得されるものだからです。

    その直感を揺さぶって、修行者を悟りの境地に導くヒントが禅問答のやり取り。

    座禅による瞑想の中で、与えられた回答を懸命に考えながら分別をそぎ落とし、新たな境地を得ようとするのが臨済禅の修行方法です。

    臨済宗と他の禅宗との違い:曹洞宗・道元との対比

    日本の禅宗には、臨済宗のほかに曹洞宗と黄檗宗があります。臨済宗と曹洞宗は鎌倉時代、黄檗宗は江戸時代の開宗です。

    いずれの教派も座禅が修行の中心になりますが、道元を開祖とする曹洞宗が、ひたすら座禅を組む「只管打坐」と「作務」を修行の柱としているのに対して、臨済宗は黄檗宗とともに公案を修行に取り入れている点が特徴です。

    曹洞宗が地方の豪族や庶民階級の間で広まったのに対して、臨済宗は主に武士階級や知識人の間で支持を深め、五山制度などにも支えられて全国各地に拠点を築いていったという点にも違いが見出せるでしょう。

    日本にお茶文化を広めた茶祖・栄西

    栄西が中国で学んだお茶とは?

    中国ではすでに、紀元前の漢の時代にはお茶を飲んでいたという記録が残されていますが、茶文化として本格的に広まったのは唐・宗の時代です。

    喫茶の方法も時代ごとに異なります。

    唐代では、蒸した茶葉を固めた固形茶を粉末にして、その煮だし汁を飲むのが一般的でした。今でいう煎じ茶に近いですね。

    これが宋代では、茶葉を粉末にして湯を注ぎ、茶せんで点てるという方法に変わります。抹茶がこれにあたります。

    さらに明代になると、茶葉に湯を注いでそのだし汁を飲むという、今ではお馴染みの煎茶スタイルとなって定着します。

    栄西が中国で禅の修行をした宋の時代には、お茶といえば抹茶のことをさしていました。

    「喫茶養生記」にも記しているように、栄西は茶に薬効があることを学びましたが、それだけでなく、茶がある種の覚醒作用を持ち、座禅中に襲ってくる睡魔を撃退する効果があること知って、茶を修行に用いることにも着目するようになったのでした。

    栄西が日本に広めたお茶文化:茶種・栽培法・茶礼

    栄西は、禅の修行に茶を活用するため、宋からの帰国時に茶種を持ち帰ります。

    帰国したのが7月で、夏を越してしまえば発芽力が弱まるのを知っていた栄西は、すぐに茶種をまきました。

    場所は肥前と筑前の境界に位置する背振山で、山の神をまつる霊仙寺の石上(いわかみ)坊の庭とされています。

    さらに持ち帰った茶種の一部は、その栽培法の知識とともに栄西の弟子、明恵にも分け与えられました。

    明恵は茶種を京都に持ち帰り、栽培に適した栂尾(とがのお)や宇治などに植えますが、これが日本各地に銘茶の茶畑を広げる第一歩となったのです。

    お茶の栽培が活発になった理由の一つに、禅宗の茶礼(されい)も関係しています。

    茶礼とは、禅の修行中に1日数回、お茶を分け合って飲む作法のことで、眠気覚ましとともに全員が心を一つにして同じ目標に向かうという連帯感を高める意味もあります。

    栄西は、宋での修業時代に培った茶礼の作法を座禅と一体のものとして、日本でも根付かせたいと考えたのでした。

    お茶文化の発展:栄西から千利休までの歴史

    栄西が宋から持ち帰った茶の作法は、禅宗が各地に普及していくにしたがって、禅院茶礼という一つの文化として育ち始めました

    茶畑も全国規模で作られるようになり、飲茶の習慣は武士や一部の知識階級のものだけではなく、一般庶民にも広がるようになったのです。

    こうなると茶は禅の修行とは切り離され、室町・南北朝時代には財力に任せて豪華絢爛な茶会を開催したり、庶民の間には「闘茶」という茶の産地を当て合うギャンブルのようなものが流行したりして、禁止令が出されるほどに加熱してしまいました。

    それに異を唱えたのが、「茶道の祖」といわれる村田珠光です。

    珠光は飲茶を娯楽と切り離し、質素な茶室での精神的交流を重んじるわび茶の世界を提唱しました。

    珠光のわび茶精神を受け継ぎ、調度や用具など茶の湯の簡素化を実現させたのは、弟子の武野紹鷗。

    そして、珠光・紹鷗のめざしたわび茶の世界観を引き継いで大成させたのが千利休です。

    利休は、あらゆる欲をそぎ落とし煩悩を捨て去って茶に向かい合う精神性を、何より重視しました。

    それはまさに禅の境地、禅宗の最終目的である悟りの世界に他ならないものなのですね。

    お茶を学ぶことで得られるメリット

    禅の境地とは、精神統一の澄んだ内省の中にこそ至ることを可能にするものです。

    これは、茶道の世界にも通じるところがあります。

    茶道では「型」が決まっていますので、決められた流れの中で、「今」に精神を集中させて茶を点てます。

    そこで得られる落ち着きは、あたかも「無」の境地に没入するがごとしで、自意識を捨て、ものごとを有るがままに見つめる心を養うことにもつながるでしょう。

    さらに、亭主と客の精神的な交流は、茶礼がめざす「和合」の修養にも通じ、自他の区別を取り去った全体との一体感を重んじる禅の精神を涵養することにもなるのですね。

    栄西の名言

    大いなるかな心や

    これは「興禅護国論」に現れる言葉で、「心というものはなんと広大なものであろうか」という意味です。

    天空の高さは極まりないが、心はその高さを軽々と越えていく。

    大地の厚さは測り知れないが、心はその厚ささえ越えていく。

    日の光や月の光より、心の輝きは明るく、果てしない宇宙よりも心は広大であると続きます。

    生きとし生ける人すべての心、その尊さをことほぐ絶唱といってもよい名言です。

    河に栖んで力あるものは、陸に登って悩む

    これも「興禅護国論」に現れる言葉で、「川の中では力を持っているのに、陸に上がったら力のないことに悩む。そのように、ない力を嘆いてもしかたない」という意味です。

    すなわち、他の人が自分にない能力を持っていたとしても、それをうらやんではいけないということです。

    欲望には際限がありません。自分が持っていないものを他人が持っていると、羨ましくなったり妬ましくなったりしてします。

    しかし自分は自分他人とは違うから、あれこれ比較して悩む必要はないということを言っているのです。

    現代にも教訓として十分に響く名言ですね。

    栄西ゆかりの地

    聖福寺

    出典:聖福寺公式サイト

    栄西が二度目の入宋から帰国した1195年、55歳で博多に開山したのが聖福寺です。日本で初めて建てられて本格的な禅寺として知られています。

    博多在住の宋人が建立した百堂跡に創建したものと伝えられ、山門にかかる「扶桑最初禅窟」の文字は、後鳥羽上皇自筆の書とされています。

    元寇の役などにより一度は焼失しましたが、その後再興された禅式様式の七堂伽藍が今も往時をしのばせています。

    寿福寺

    出典:Wikipedia(著者:Naokijp、CC 表示-継承 4.0)

    鎌倉市にある寿福寺は、臨済宗建長寺派の寺院で鎌倉五山の第三位にあたります。

    禅宗の布教に助力を乞うため59歳で鎌倉に来た栄西は、北条政子らによってこの寺の住職に招かれました

    もとは政子の夫、源頼朝の父である義朝の居館でしたが、頼朝が落馬によって死去すると、その菩提を弔うために源ゆかりの地に創建したのが寿福寺です。

    なお、栄西の記した「喫茶養生記」は、この寿福寺に保管されています。

    建仁寺

    出典:Wikipedia著者:663highland、CC 表示 2.5

    京都にある建仁寺は、臨済宗建仁寺派の大本山で京都五山の第三位にあたります。

    栄西62歳の1202年、源頼家に土地の寄進を受けて建立した京都最古の禅寺としても知られます

    旧勢力の妨害によって布教活動もままならなかった栄西にとって、京の都で禅宗の教えを説くことは長年の宿願でした。

    当初、天台・真言・禅宗の3宗並立ではあったものの、ようやく禅宗が世に認められた象徴として建仁寺は歴史に刻まれます。

    1256年に一度焼失しましたが、2年後に再建されると翌年には臨済禅の道場が備わって、名実ともに臨済宗単独の寺院となりました。

    栄西の教えを今に生かす方法

    座禅の効果とやり方

    座禅の効果

    座禅を組む最大の目的は、悟りを開くこと、つまり自分の中にある仏性に気づくことです。

    一方で座禅には、心身にとって素晴らしい健康効果をもたらすということも知られています。

    たとえば、その一つが自律神経の調整です。

    自律神経は、交感神経と副交感神経に分けられますが、このバランスが乱れると心身にさまざまな悪影響が生じてしまいます。

    交感神経を車のアクセル、副交感神経をブレーキにたとえるとわかりやすいかもしれませんね。

    座禅と自律神経(交感神経と副交感神経)について

    アクセルが利きすぎる体は常に臨戦態勢で、心拍数が上がって血圧も上昇します。

    アクセルを踏ませる大敵はストレスです。ストレスがたまるとアクセルが利きすぎて、イライラや不眠、食欲不振や頭痛・腰痛などの原因になってしまうのです。

    だからブレーキをかけることが必要。しかしブレーキがうまく利かない場合もあります。それこそが自律神経の乱れた状態なのです。

    座禅を組むと、瞑想と深い呼吸によって「セロトニン」という神経伝達物質の分泌が活発になることが科学的に証明されています。

    そしてこのセロトニンが、乱れた自律神経にブレーキを利かせて、ゆったりとしたリラックス感をもたらすのです。

    近年、一般の人の間で座禅愛好者が増えているのも、こういった健康効果への期待が背景にあるのかもしれませんね。

    さて、座禅の効果がわかったところで、具体的なやり方を確認してみましょう。

    座禅のやり方

    座禅は静かな場所で行います。精神を統一して自分の心と向き合うことが大切です。

    座禅では、精神統一を助けるための基本動作が作法として定められており、調身・調息・調心という3つの動作がそれにあたります。

    • 調身とは姿勢を正すこと。
    • 調息とは呼吸を整えること。
    • 調心とは調えた呼吸に集中すること。

    この動作を繰り返して心を静めた後は、呼吸に合わせてゆったりと数を数えます。この呼吸法を「数息観(すそくかん)」といいます。

    数息観を用いて心の平静を保ち、ゆっくりと瞑想を深めていく。この一連の流れが、座禅の一般的なやり方になります。

    看話禅と禅問答のやり方

    看話禅では、座禅を組みながら公案の答えを懸命に考えます。そのようにして、悟りの境地を体得できる状態にまで自身を近づけるのです。

    禅問答は指導者が質問をして、修行者が答えるというという順番で対話を行います。

    修行者の回答に対して、指導者はさらに問いを重ねます。

    そのやり取りの中で自己への内省を深め、座禅に入って熟考するというのが一連の流れです。

    まとめ:栄西は日本仏教史に大きな足跡を残した偉大な高僧

    「興禅護国論」の中で栄西は、「広く衆生を度して、一身のために一人解脱を求めざるべし」という言葉を残しています。

    「すべての人を救いの道に導くべきであって、自分一人が悟りを得て満足するべきではない」という意味で、自分のエゴを捨てて人々を救いの道に導きたいという宗教者らしい強い意志が感じられます。

    栄西には、権力者におもねって名声を得ているという芳しくない批判も聞かれます。

    しかし布教禁止令などで禅宗の教えが封じ込められるくらいなら、権力とも大いに手を結び、名誉欲のかたまりとも揶揄されようと構わないといった宗教者の矜持も、この言葉からは聞こえてくるようです。

    禅の教えだけでなく、茶の道の基礎を築いたのもまさにこの栄西の偉大な功績。

    信念の人がまいた小さな種は、やがて日本の仏教・文化の歴史の上に大きな花を咲かせることになったのでした。

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