達磨大師の教えと名言|禅宗を開いた男の壮絶な人生と功績とは

    日本の伝統的な置物として、さまざまなシーンで目にする機会の多い「だるま」。

    受験合格の必勝祈願や、家内安全・商売繁盛などの縁起物として重宝されるほか、「だるまさんがころんだ」という子どもの遊びでもおなじみですね。

    実は、あのだるまにはモデルがあります。それが中国禅宗の開祖である達磨大師です。

    愛らしい置物の姿とは裏腹に、波乱に満ちた伝説や、壮絶ともいえる逸話などが数多く残されている達磨大師の生涯

    その教えは今に続く禅の精神の礎となっているだけでなく、迷いの尽きない日々の生活に光を与える名言として、暗くおぼつかない足元を明るく照らしてくれています。

    日本でも深く愛されている達磨大師の事績をたどりながら、奥深い禅の世界にぜひ触れてみてください。

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    達磨大師ってどんな人?

    達磨大師の生い立ち

    達磨大師はインドの人です。今から約1500年前、南インドにあった香至(こうし)国の第3皇子として誕生し、本名は菩提多羅(ぼだいたら)といいます。

    香至国とは3世紀から9世紀後半にかけて、南インドの東岸一帯を支配していたパッラヴァ朝をさしており、カーンチープラム首都を首都として、中国・南朝とも交易を盛んに行っていたことが知られています。

    一方で、達磨は香至国の王子ではなく、青い目をしたササン朝ペルシャの人だとする言い伝えもあります。
    これは達磨を「西域・波斯国の碧眼の胡僧」とする記述によるもので、その出自には諸説あることがうかがえます。

    達磨大師の功績

    達磨大師は、仏教の始祖である釈迦から数えて28代目の仏法継承者にあたります。

    仏教にはさまざまな宗派がありますが、その中に禅宗と呼ばれる教派があります。これは、経典や文字などによらず、座禅という行為を通して悟りを開くことを重んじる宗派です。

    そして、この禅の思想をインドから中国に伝え、中国禅宗の開祖となったのが達磨大師なのです。

    禅の考え方は、自然と一体となった無の境地を重んじる当時の老荘(ろうそう)思想とマッチしたほか、日常の一般的な生活の中に修行の場を見出す「作務」という考え方が民衆に支持されて、またたく間に中国全土に広まりました。

    こうして隆盛を極めていった中国の禅宗は、後に日本にも伝わり臨済宗・曹洞宗・黄檗宗といった独自の発展を遂げていきますが、今では宗教という括りを超えた「ZEN」という文化思潮にまで昇華して、世界にその精神性を発信するまでに至っています。

    その立役者・功労者こそが、まさに達磨大師であるといえるのですね。

    達磨大師の伝説と逸話

    達磨大師は150歳まで生きた!?

    達磨大師には、出家にまつわる次のような逸話が残されています。

    達磨大師の生涯

    師匠となる般若多羅(はんにゃたら)との出会い

    達磨がまだ菩提多羅と名乗っていた7歳のころ、達磨の1代前、27代目の仏法継承者である般若多羅が香至国を訪れました。

    般若多羅を招いた国王は、説法の礼として宝玉を贈ります。受け取った般若多羅は3人の王子に向かって「この宝玉より素晴らしい宝があるでしょうか」と問いました。

    2人の兄が「これに勝るものはない」と応じたのに対して、菩提多羅は「これよりもお釈迦様の説かれた真理の方が素晴らしい」と答えて般若多羅を感心させました。

    そこで国王に菩提多羅を出家させることを提言し、国王もその勧めを受けて般若多羅の弟子とすることを認めたのでした。

    出家〜死没までの歩み

    菩提多羅の出家を許した国王は、病気をして程なく亡くなります。
    菩提多羅は父が亡くなる少し前から座禅を組み、父の死後の行方を明らかにしようと瞑想しますが、分からないまま7日が過ぎて、ようやく父が亡くなったということを理解します。

    これを機会に出家を決意、般若多羅の弟子として達磨と名を変え40年の厳しい修行に励みました。

    40年後、ようやく師匠から一人前と認められた達磨は、自分の布教先を師に尋ねますが、「この後もこの地で修行を続け、自分の死後67年各地で教えを広めた後に中国に渡れ」と命じられます。

    達磨は、師のその言葉通りに各地を行脚し、般若多羅の死後67年してようやく中国に渡ったのは120歳を過ぎたころでした。

    中国に渡った達磨は、少林寺を拠点に各地に教えを広め、528年に没した際は何とその年齢が150歳を過ぎていたともいわれているのです。

    隻履西帰(せきりせいき)

    達磨大師は亡くなり際にも伝説を残しています。

    達磨が中国に渡り禅の布教をはじめるとその教えはあっという間に中国全土に広がっていきましたが、既存の仏教勢力は禅の拡大を快く思っていませんでした。

    そのため、達磨は異端とみなされ5度の毒殺をはかられ、その都度難を逃れてきましたが、6度目にはこれを受け入れ、座ったまま亡くなります。

    しかしその3年後、一人の役人が旅の途中で、片方の靴を持って西に走る達磨に出会いました。行き先を聞かれて達磨は「天竺(インド)に帰るのだ」と答えます。

    役人が帰国すると達磨は亡くなったと聞かされ、驚いて棺を開けてみると、靴は片方だけしか残っていなかったという逸話。

    達磨が亡くなったその日は10月5日。命日は、達磨忌として各地でその遺徳がしのばれています。

    6つの宗派を論破

    師の般若多羅は、自分の死後67年間、インド各地を歩いて教えを広めよと達磨大師に命じました。

    その言葉は、その後の事態を予見していたものなのか、般若多羅が亡くなると間もなく同門が6つに分裂し、それぞれがおのおのが教義を打ち立てて仏教界は大いに混乱してしまったのです。

    達磨は各教派の教えを吟味したうえで、いずれも真理を伝えていないと裁断し、6つの宗派の拠点にすべて赴いてこれを論破していきました。

    いずれの宗派も完膚なきまでに打ち負かしたことで、達磨の説く禅の精神はインド全土にその存在感を増していく結果となったのです

    手足を失った面壁九年

    中国に渡った達磨大師は、禅の道を究めるために嵩山の少林寺にこもって9年間もの間、ひたすら座禅を続けます。

    この座禅は仏の正法を得ようとする意図であるのはもちろん、仏法を真に伝えられる弟子を待とうとするものでもありました。

    9年間の座禅は苦行そのもので、修行3年目には襲い来る眠気に耐えかねて自らの瞼を切り取って投げ捨て、ついには手足も腐り落ちてしまったという伝説まで残っています。

    「面壁九年」が「長い間粘り強く努力すること」という意味の四字熟語にもなっているのは、この伝説が語源になっていたのですね。

    皇帝に「無功徳(むくどく)」と喝

    達磨大師が中国に渡ったのは、二つの王朝が並立していた南北朝時代。

    広州の港に着いた後、その姿を目撃した広州の役人が南の王朝、梁国の武帝にインドの僧の到来を報告します。

    武帝は仏教の熱心な信者でした。インドから仏僧が来たということで、すぐに人をやり梁の都金陵で達磨大師を迎えました。

    武帝は早速、達磨に問います。

    「私はこれまで、寺院を建てて人民をたすけ、写経もすれば仏像も作った。この行いにはどれほどの功徳があるだろうか」。

    これに対して即座に言い切った達磨の答えが、「無功徳」でした。それは形に現れただけの善行であって、真の功徳ではないというのです

    「それでは真の功徳とは何か」と気負い立つ武帝に対して、達磨は「この広い世界で、聖も俗もありません」と答え、聖人を気取った武帝の自負心を一刀両断に切り伏せました。

    こうして、武帝は仏法に無縁だと判断した達磨は、揚子江をのぼって北の国、魏の洛陽をめざします。その姿は、葦の葉に乗って揚子江を渡ったという伝説にもとづいて絵画にも描かれました。

    ついに洛陽に至り、少林寺にこもって座禅三昧の日々を送りましたが、その姿こそ先の「面壁九年」だったというわけです。

    弟子である慧可が腕を切り落とす

    少林寺で毎日壁に向かって座禅を続ける達磨大師のもとに、神光という修行僧が訪れます。

    仏法を究めたいとあらゆる勉強を重ねましたが、どの教えにも納得できず、名高い達磨のもとで修行を積みたいと思ってやって来たのでした。

    ところが達磨は座禅を続けるばかりで相手にしてくれません。

    雪の降る日で、神光は明け方まで濡れながら立ち続けました。達磨はようやく神光に声をかけ「何が望みか」と尋ねました。

    弟子になりたいという神光に対して達磨は、「仏法の道は厳しいものだ。生半可な気持ちで求めることはできない」と諭したところ、神光は潜ませていた刀で左腕を切り落として見せました

    その熱情に求道の覚悟を感じた達磨は、神光に慧可(えか)という名を授けて弟子になることを許します。

    この慧可こそ、後に達磨の後継となる人なのでした。

    達磨大師と聖徳太子との出会い

    日本にも馴染み深い達磨大師ですが、実は聖徳太子とも出会っていたのだという伝説が残されています。

    聖徳太子が各地を巡行していた613年、奈良の片岡山という場所で行き倒れの人を見かけました。

    食べ物を与え着物をかけて行き過ぎ、後にその場所に人をやって様子を見させたところ、すでに亡くなっていました。

    聖徳太子は手厚く埋葬するよう命じましたが、かの人は必ずや聖人であったはずだと思うに至り、後に墓を掘り起こさせると、亡骸はなく着物がきれいに畳まれて残されていたということです。

    この行き倒れた人こそが、何を隠そう達磨その人であったというのが伝説の内容です。

    本逸話の背景

    この伝説が生まれた背景には、聖徳太子があまりに素晴らしい聖人であったことから、中国天台宗の祖、南嶽慧思の生まれ変わりであるという言い伝えが色濃く反映されています。

    聖徳太子が南嶽慧思であったころ、彼のもとを訪れていた達磨が、海の東の国に渡って仏法を広めてくれるよう依頼しました。

    自分は一足先にかの地に渡って待っているからと伝えたといいます。その東の国が日本で、行き倒れていたのが達磨であったという物語。

    そして片岡山と推定される場所には、今では達磨寺が建立されています。

    達磨大師の教えと禅宗の始まり

    達磨大師が説いた禅の本質:四聖句

    達磨大師は、「禅とは行いの中に悟りを得るもの。文字では決して伝わらない真実こそが禅の本義である」と考えました。

    そのような禅の本質を4つの言葉で表したのが「四聖句」です。

    すなわち不立文字(ふりゅうもんじ)」・「教外別伝(きょうげべつでん)」・「直指人心(じきしにんしん)」・「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」がその言葉にあたります。

    悟りの境地は文字で示すことはできないという「不立文字」、経典では伝えられない真実を禅のうちに気づくべしという「教外別伝」、自身の内奥を見つめ、仏性を見出すべしという「直指人心」、自分の中に仏性が見出せたらその仏性と一体となるべしという「見性成仏」。

    この4つこそがまさしく禅の神髄であると、四聖句は伝えているのです。

    達磨大師が説く悟りへの道:二入四行論

    禅の奥義に至るには、2つの前提と4つの実践が必要だとする教えが、達磨大師の「二入四行論」です

    2つの前提とは、「理入」と「行入」。

    二入とは

    理入は、禅の理論をしっかり心身に叩き込んで壁のように動じない心で修行に励むことをいいます。

    行入は、行いによって悟りに近づくことをいい、次のような4つの実践方法が示されています。

    四行とは

    すべては前世の行いによるものなので、怨みがあっても耐えるべきだという「報怨行」。

    すべては因縁によるものなので、一喜一憂すべきでないという「随縁行」。

    すべての欲は苦しみの元なので、持つべきではないという「無所求行」。

    すべての現象はすべて空なので、仏法に従ってあるべきにまかせよという「称法行」。

    理論と実践で禅の奥義を知りなさいという教えが、すなわちこの二入四行論なのですね。

    達磨大師が残した3つの名言

    達磨大師の言葉の中には、普段の日常生活の中でも心の拠り所になる名言が伝わっています。

    全ての人が道を知っているが、わずかな人だけ道を歩いているはその一つ。

    大切なことは知っていても、実践できる人は少ないものです。行動力の大切さを教えてくれる言葉ですね。

    気は長く心は丸くも達磨の言葉です。

    短気になってイライラしがちな毎日、トゲトゲしないで気を長く持ち、心を丸くして生きなさいという教えが心に響きます。

    心が差別することを邪というも、座右の銘などによく引用される言葉です。

    善も悪も本来は人の分別がもたらす決めつけにすぎません。その決めつけこそが、心を貧しくするのだと諭しているのですね。

    このように達磨大師の言葉には、宗教の枠を超えて人々に感動をもたらす数々の名言も多く残されているのです。

    達磨大師が開いた禅宗の歴史:慧可・神秀・馬祖、黄檗、臨済

    慧可(えか)

    禅の奥義は、達磨大師を祖として、二祖の慧可に伝わります。

    達磨が慧可を後継者に指名したいきさつは、「皮肉骨髄」という訓戒で明らかです。

    達磨が亡くなる前、弟子を集めて禅の到達度を尋ねました。
    「文字にとらわれず、文字を離れず」「愛欲を離れ心静まる」「すべての事物は有にあらず」などの答えが出ましたが、達磨はそれらに「汝はわがを得たり」「汝はわがを得たり」「汝はわがを得たり」と評していきます。

    最後に、慧可が何も言わずただ黙礼して自席に下がった姿を見た達磨は、「汝はわがを得たり」と自らの法衣を授けました。

    すべてを会得したのは慧可であったと達磨は判断したのです。

    「慧能(えのう)」と「神秀(じんしゅう)」

    慧可以降、禅はこうして五祖の弘忍(ぐにん)にまで受け継がれましたが、六祖の慧能のときに二つに割れました。
    袂を分かったのは弘忍のもう一人の弟子、神秀です。

    慧能は内なる仏心に出会うまで、ひたすら己を追い込むべきだという考え方でしたが、神秀は禅の修行を通して、徐々に悟りを開く境地を主張しました。

    神秀の禅風は北方に広がって北宋禅といわれ、慧能の禅は南方に勢力を得て南宋禅と称されました。

    結局、五祖の衣鉢を継いだのは慧能の南宋禅で、この流れが唐代・宋代に受け継がれ、五家七宗という禅の全盛期を築き上げることになるのでした。

    馬祖道一(ばそ どういつ)

    こうして禅が中国全土に広まる中で、一部の知識階級や上流階級の手から民衆の中にその思想を広げていったのが馬祖道一でした。馬祖は慧能から法を受け継いだ南嶽懐譲(なんがく えじょう)の弟子です。

    ある日、師匠の南嶽懐譲から「何のためにそんなに熱心に座禅を組むのか」と聞かれた馬祖は、「座禅をして煩悩を払い切りたいからだ」と答えました。

    すると師匠は瓦くずを拾い上げて磨きだし「鏡をつくる」といいます。

    「それは無理でしょう」とあきれる馬祖に南嶽懐譲は、「お前が行っているのはその無理だ」と返しました。「瓦は磨いても鏡にならない。座禅を悟りの手段として考えているうちは、いくら座禅を組んでも煩悩から逃れられない」。

    その言葉に打たれた馬祖は、座禅とは煩悩を取り払うための手段ではない、悩みを抱えたまま座禅を組むことそれ自体が仏の心にかなうのだ、と会得します。
    それは言い換えれば、日常生活のあらゆる場面で誰もが悩みを抱えたまま禅を実践できるということでもありました。

    この教えが民衆に広まり、禅は一つのかたちを持った宗教体系として定まりました。そのため馬祖こそが、中国禅宗の確立者であると評されてもいるのです。

    馬祖はまた、迷いを断ち切る気合の言葉「喝(かつ)」を初めて使った人としても知られていますね。

    「黄檗希運(おうばく きうん)」と「臨済義玄(りんざい ぎげん)」

    ところで、日本の臨済宗は栄西によって中国からもたらされましたが、その始祖が馬祖の三代後の仏法継承者である臨済義玄でした。

    臨済の師匠は黄檗といい、臨済は黄檗のもとで3年修行し、その間3度問答を試みましたが、すべて棒で打ち付けられてしまいます。

    自分には禅の資格がないと落胆した臨済は、黄檗に別れを告げに行きますが、その前に大愚和尚を訪ねてこいと言われます。大愚は禅の高僧です。

    臨済の話を聞いて「バカな奴だ、黄檗師匠の親切がわからないのか」と諭し始めますが、臨済は突如として悟り「黄檗の教えがわかった」と言いました。

    大愚は「お前に何がわかったというのだ」と掴みかかったところ、組み伏せられた臨済は大愚の脇を三度叩いて手を離させました。

    黄檗のもとに帰った臨済は、大愚和尚とのやりとりを報告します。

    「大愚はしょうがない奴だ、会って一発食らわせなくてはならん」と黄檗が憤慨すると、臨済は「会うのを待つまでもない、今食らわせましょう」と言って、師の頬を張ったのでした。

    臨済は後に、心の内にある真実に出会うためには、すべての権威を否定しなければならないと説く、いわゆる「殺仏殺祖」を唱えます。

    仏に会えば仏を殺し、祖師に会えば祖師を殺す」という強烈な考え方ですが、それこそが禅の厳しさであり、その厳しさに耐えて初めて解脱を果たすことができるのだ、と教えます。

    中国の禅宗は、このような名僧たちによって支えら、宋の時代に全盛期を迎えて日本にも伝播していったというわけなのです。

    達磨大師が日本にもたらした禅の精神:書道・茶道・庭園・絵画・彫刻

    日本人の心には、「侘び・さび」という独自の精神文化が根付いていますが、禅の精神はこの心象風景と非常に親和性が高く、書道・茶道・庭園・絵画・彫刻などの各方面で、卓越した芸術様式を構築しています。

    たとえば書道では、墨蹟と称される簡素で力強い筆致、絵画では幽玄の美を描く水墨画技法の中に息づいているのが、無駄を省き本質を究めようとする禅の精神です。

    彫刻の分野でも、鎌倉彫の技法などが禅宗とともに伝来して今に息づいています。

    茶の種子を中国から持ち帰ったのは臨済宗の祖、栄西です。茶禅一味という言葉があるように、茶も禅宗とは深いゆかりを持っており、侘び・さびの精神と結びついて茶道の文化が生まれました。

    日本庭園といえば枯山水の様式が有名ですが、石と砂で深山幽谷の世界を作り上げようとするその技法は、質素と静寂を重んじる禅の精神が反映されたものです。

    このように、日本文化を代表する多くの芸術ジャンルは、達磨大師を始祖とする禅宗に大きな影響を受けているのですね。

    達磨大師とだるま人形の関係

    手足がないだるま人形の起源

    縁起物の置物として重宝されているだるま人形は、達磨大師がモデルです。

    だるま人形に手足がないのは、面壁九年の壮絶な修行で手足が腐り落ちてしまったからと伝えられています。

    鎌倉時代に禅宗が伝来した際、その始祖である達磨大師の逸話は、禅宗の僧侶たちによって広く紹介されるようになりました。

    中でもは、少林寺での過酷な修行を耐え抜いた達磨の信念は、質実剛健を重んじる武士階級に強い感銘を与えたとされています。

    その崇拝の念から、手足のない人形は鎌倉時代に数多く造られるようになりましたが、江戸時代になると起き上りこぼしの人形に形を変えて庶民の間にも広まるようになりました。

    転んでもすぐに立ち上がる、くじけない強さ。
    当時の人は達磨大師の精神力にあやかって、人形に自分の姿を重ねていたのでしょうね。

    目入れだるまの始まりと意味

    だるま人形は、江戸時代になると縁起物として定着するようになりました。

    当時は天然痘が流行していて、失明することも多く、その厄除けの縁起物として広まったとされています。

    だるま人形は目力が特徴で、鋭いまなざしが邪気を追い払い運を呼び込むとされています。当初は目を入れて売られていましたが、自ら目を入れて入魂し、開眼させることで、よりその効果を高めるという風習が広まりました

    そのため、買って自分で両目を書き入れることはもちろん、片目だけを入れて願をかけ、成就した後に目を足して開眼させ、感謝の意を表すという方法も取られるようになりました。

    たとえば家内安全や健康祈願は両目を入れ、願掛けでは片目だけを入れるという使い分けがよく見られます。

    片目の場合は、左右どちらに目を入れるかが気になるところですが、特に決まりはありません。

    ただし、右よりも左が上位とされる伝統的な風習に則って、左目から書き入れるという地方もあるようです。

    達磨大師に倣って座禅を組もう

    座禅の効果:座禅がもたらす心身の健康

    座禅を組んで悟りを開く、それこそが禅の究極的な目的といえるでしょう。
    しかしそれ以外にも、座禅には大きな効果が期待できるのです。

    一つには心の安定。

    座禅には心を鎮め、雑念を払いのける効果があります

    そのため、日常的に感じているストレスを解消し、集中力や注意力を取り戻すことができるようになるのです。

    座禅はまた、自律神経を整えるということも科学的に証明されています

    座禅と自律神経(交感神経と副交感神経)について

    自律神経が乱れると、交感神経が必要以上に活発化して心身に悪影響を及ぼしますが、座禅による瞑想状態は幸せホルモンと呼ばれるセロトニンなどの分泌を促進し、副交感神経を優位に働かせてリラックスした気持ちをもたらします

    自律神経が整うと免疫力が向上し、病気にかかりにくくなるのです。

    座禅を組んで、いきなり悟りの境地に至るというのは難しいかもしれませんが、まずは身近な健康づくりに取り組んでみる、という気軽な気持ちが大切なのですね。

    なお、座禅の効果については、以下の記事にまとめているので詳しく知りたい方は参考にしてください。

    座禅のやり方:姿勢や呼吸法、注意点など

    座禅は静かな場所で、心を落ち着かせて行います。精神を統一して気持ちを無にすることが大切です。

    その際、注意しなければならないのが姿勢呼吸

    調身・調息・調心」という基本動作がありますので、一つひとつ確認しながら臨みましょう。

    まず調身とは、正しい姿勢で座るという意味です。足の組み方、手の置き方にもコツがあります。

    調息とは、呼吸を整えるという意味です。鼻で息をしながら心の中で静かに数を数えます。

    調心とは、呼吸に意識を集中させるという意味です。調心によって瞑想状態を深めていきます。

    この3つの基本動作をしっかりと体得することで、湧き上がる雑念を抑え、次第に悟りの境地に近づいていくことができるようになるのです。

    最初は難しいかもしれませんが、慣れてくると、雑念を払うまでの時間がだんだん短くなり、気持ちがスーと軽くなっていくのが実感できるようになりますよ。

    なお、座禅については、以下の記事にまとめているので詳しく知りたい方は参考にしてください。

    まとめ:達磨大師から学ぶ禅の魅力

    「だるまさん」と呼んで親しまれている置物は、実は中国の禅宗の開祖となった名僧、達磨大師がモデルだったのですね。

    禅に対する真摯な取り組みは、その愛らしい姿からは想像もつかない壮絶な逸話や伝説を数多く残しているのでした。

    しかし、厳しいばかりではありません。

    毎日の暮らしの中で、ふと道を見失いそうな心の迷いに光を照らし、やさしく勇気づけてくれる名言もしっかりと届けてくれています。

    達磨大師の禅の精神は、やがて日本にも伝わって、わが国独自の侘びさびの精神風土と結びついて大きく発展を遂げました。建築、文化、芸術と、いずれもその影響を見ないジャンルはありません。

    奥深い禅の世界。達磨大師の事績をきっかけに、その魅力によりいっそう深く触れてみてはいかがでしょうか。

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